四十九日一日目 「今日から三週間、目覚めてはなりません。酷い有様ですから、起きてはいけませんよ」 二十二日目 クダリは静寂のなかで目が覚めた。外は暗い。時間がわからず、枕元の時計を探したら、冷たいポールに手がぶつかる。 サブウェイマスターのコートを着たまま、クダリは眠っていたようだった。自分の部屋で布団を被って寝たのがクダリの最後の記憶だったのだけれど、どうやらここはクダリの部屋ではないらしい。 ライブキャスターはずっと砂嵐を映していて、不快な音にクダリはその電源を落とした。 クダリはあたりを見回す。 そこはスーパーダブルの最後尾だ。けれども、本来戦うはずのトレーナーも、その先進むはずの車両もない。一両きりだった。 部屋のふりをした車両の中には、クダリがぽつんと取り残されている。沈黙に耐えかねて、クダリはありったけの大声で叫ぶ。 「誰かー!居ませんかー!」 声はトレインの中で反響し、やがて小さくなって消えた。誰も応えない。 二十四日目 目覚めてからもう三日経つ。それもクダリの体内時計によるざっくりとした体感であるから、実際に何日経っているのか、クダリに正確なところはわからない。 何もかもが無重力のなかでふよふよ浮いているさまをクダリは楽しんだ。空気を掻くように少しでも動かせば、ただただ広い車両の端から端までを苦労なく移動できる。地面から浮いているシビルドンはこんなにも快適な心持ちだったのだろうか。 いつも音もなく浮遊している相棒の姿を思い描いて、クダリは気がついた。いつも眠るときは枕元のホルダーに置いて、手に届く範囲にあるはずのモンスターボールが、見当たらない。 俄かにクダリの顔に焦りが現れる。 「みんな、何処なの。居ないの。居たら返事をして」 クダリは全神経を集中して耳を澄ませた。どんな些細な物音も聞き逃さないように。バトルのとき、ポケモンたちの確かな息遣いを探るように。 けれどもクダリの鼓膜を震わせるのは、焦った心臓が刻む早足の鼓動ばかりだ。 耳鳴りにも似た静寂がクダリを苛む。 どうしよう。焦りは音にならない。もしかしたら大切なポケモンたちが誘拐されてしまったのかもしれない。心臓のあたりを不安に鷲掴みにされて、ひどい息苦しさに耐えられない。紛らわせるようにクダリは見知っ車両の隅々を探し回る。 途端、クダリのコートのポケットからかさりと乾いた音がした。紙がひしゃげる音だ。 「……ノボリの字だ」 杓子定規でややかたい筆跡はクダリが探し求めている片割れのものだ。 ――貴方の子たちを借りています。無断ですみません。 綴られていた言葉は心のざわめきを宥めてくれた。ひとまず誘拐の危機は去ったということだろう。問題は、このメモが一体何時書かれたものなのかだった。 二十七日目 クダリの車両はふわふわと銀河を漂う。ノボリはこのただっぴろい暗闇のどこかにいるのだろうか。だとすれば、それはとても寂しく恐ろしいことだとクダリは一人案じる。アーケオスは、シビルドンは、デンチュラは、アイアントは、オノノクスは、シャンデラは、ギギギアルは、ダストダスは、イワパレスは、ドリュウズは……どこだ。 「ノボリ、みんな、どこなの」 誰も応えない。 二十八日目 ノボリは最後の夜に言ったのだ。無理してクダリの真似をし損ねた、引き攣る顔で。三週間、目覚めちゃ駄目だと。起きているといけないと。クダリはノボリの言うとおりクダリの部屋に籠って、それきりだ。 では、ノボリは? ノボリは危険じゃないのだろうか。ノボリは何をしているのだろう。ノボリはああ見えて間が抜けている。どこかクダリの知らないところで迂闊なことを仕出かしているのかもしれない。 あるいは不意に現れたと思ったらまたクダリの襟首を掴んで引き摺ってくるかもしれない。楽観的に考える。クダリはあれを好ましくは思わなかったけれども、しばらくされていないとどうにも恋しい。今なら文句を言わずにズルズルされてやってもいい。だから。 「だから、ノボリ、出てきなよ」 声は泣き出しそうなものになった。 けれども、虚空の中では、誰も応えない。 静寂が恐ろしい。 一人で居ることが寂しい。 傍らにノボリが居ないのが悲しい。 「ノボリ、ノボリ、ノボリ」 言葉にすればするほど、恋しさは目の奥から涙になって溢れ出す。 灰色から零れ出た透明な水滴は、クダリの周りを行く当てもないままゆったりと漂っていた。 クダリはどうしようもない気持ちで、トレインのシートに横になった。もう一度眠ろう。目覚めたら、ノボリもポケモンたちもクダリの許に戻ってきてくれているかも、しれない。何度願ったかわからない未来だ。今日があれから何日立った日付にあたるのかはわからない。 おっちょこちょいなノボリのことだから、一週間勘違いをしているのかもしれない。ありえなくもないことだ。いずれにせよ、ノボリはきっと、帰ってくる。クダリがノボリを置いていくことはあったとしても、ノボリがクダリを置いていくことなんてありえないのだから。 クダリは、目覚めてからきっかり七回目の眠りに就いた。 二十九日目 いつの間にか目覚めたようだった。ギアステーションはスーパーダブルトレインのホームに、知らぬ間に降り立っている。そこには似つかわしくない黒いコートが佇んでいた。 「ノボリ……!」 呼ばれた背中はびくりと反応をしたけれど、振り返るその動作はやたらとゆっくりしたものだった。地に足が付いている感覚なんてしばらくぶりだった所為か、クダリはよろめきながらノボリへ駆け寄った。 「何処行ってたの、大丈夫なの、あのね、心配した」 ノボリは憔悴しきった顔で、すみません、と言った。その背の後ろで乾いた音がした。セロファンが潰れるような音だ。ノボリは背後に何かを隠したけれど、ノボリを見とめた嬉しさばかりが溢れて、クダリは気づかない。 「もう、一週間も余計に経ってしまいましたね」 「もう四週間てこと? いつまで待たせるの。もっとてきぱきして」 不遜な物言いにも、ノボリは目に鈍色を湛えたままだ。 「待たせてすみません、本当に。それと、お前にこの子を返します」 手渡されたのはクダリのモンスターボールだ。 「どうしてシャンデラだけなの?ほかの子は?」 「アーケオスたちは、……少しわたくしの方を手伝って貰っています。彼らの手が必要で」 「みんな無事ならいいや、そっか、ありがとう。ノボリ。シャンデラ、久しぶりだね」 クダリのシャンデラは鈴が鳴るような声で応えた。クダリの周りをぐるぐる回る。シャンデラとじゃれ合っていたクダリは、ぴたりと動作を止めて、何故だかまだ怯えの色が残るノボリに向き合った。 「あのね。ノボリはいつ帰ってくるの」 「……クダリ、もう少し、待っていてくださいまし。今度こそ、あと三週間です。またこの場所で会いましょう」 あと三週間。ノボリはまた微笑み損ねた引き攣る顔で言うのだ。大丈夫。それくらい、待っていられる。ノボリが言うのなら。 「寝ていればすぐだね」 自分の言葉を認識してきれいに微笑んで見せたところで、クダリは目を覚ました。 見覚えのある内装は、スーパーダブルの一両目。クダリの他は誰もいない車両は、しかしいつも通りに走り続けている。どういうことだ。 「夢……?」 クダリは頭の中を記憶とも夢とも分からないものにかき乱されていた。あのときは確かにホームに居たはずなのに、どうして電車に乗っているのだろう。それとも夢だったのだろうか。けれど包まって眠っていたはずの掛け布団が社内のどこにもない。だとしたら、いったいどちらが夢なのだろう。クダリは混乱した。また地に足が着かない状態のまま、クダリは車内をふよふよと泳ぐ。 腰元で、何かが揺れた。久々の感覚にびくりとして、クダリは暴れる。 「わたしです、マスター」 声は鈴の音のような響きを持っていた。クダリが弄ったわけでもないのに、勝手にモンスターボールを開けて出てくる。そうしてクダリの目の前でくるくると回って見せた。 「シャンデラ、君なの!?」 「そうです、マスター。わたしです。あなたのシャンデラです」 「君が喋ることができたなんて! どうして今まで隠してたの!?」 「わたしが話せるようになったんじゃなくって、マスターがわたしと話せるようになったんですよ」 「どう違うの?」 「大違いです」 クダリはしばらく考え、そして止めた。いくら悩んだところで、クダリにとって貴重な話し相手ができたという事実に何ら変わりはない。長らくのパートナーと同じ言葉で思いを交わせる喜びの方が大きかった。 「シャンデラ、君がいれば三週間なんてあっという間だね。ありがとう」 「そうです、あっという間ですよ。だからせめて、楽しんでくださいね、マスター」 三十日目 シャンデラと一緒にふわふわ浮いているクダリができることは、会話と車内探索と、睡眠くらいであった。あちらこちらを探索してクダリが分かったことには、クダリが眠りについて日が改まるごとに彼らのいる車両が移動していた。本来七両しかないトレインは、クダリたちが七両目に至ると素知らぬ顔で一両目に戻っていた。これらを疑問に思いこそすれ、ノボリに会えるのを信じてやまないクダリは、日数を数えるのに都合がいいね、とシャンデラと笑うばかりだった。 三十五日目 クダリは焦っていた。身体に力が入らないのだ。あと二週間耐えなければならないのに。 「マスター、無理しないでください」 シャンデラに支えられると身体がふっと軽くなる。クダリと触れあった後は、炎の調子も良さそうだった。 四十二日目 ノボリはスーパーダブルのホームへ連日出向いている。けれど、ダブルトレインは運休になって一ヵ月半が経過している。今後復旧の目処も、後釜が見つからず立っていない。 サブウェイマスターの証である黒いコートが、吹き抜けた風に煽られてはためく。トレインが通過したわけでもないのに。ホームから伸びる線路の両端は、真っ暗闇に飲み込まれて先が見えない。 先日、およそ一月ぶりにクダリに会った。ノボリの遅刻を詰っていた。次はいつかと迫られて、口を突いて出たのがまた三週間後、だ。 本当は毎日だって会っていたい。けれどそれではノボリの心が持ちそうになかった。クダリと離れてからおよそ一月半、それだけ経っていても、思い返すだけで辛くて駄目になりそうだ。けれど、クダリと面と向かって会えるチャンスもあと一度きり、約束の三週間目も目前に迫っていた。 ノボリはホームの端で膝を折る。手には白い花束が握られていた。 四十九日目 とうとう、二十一日目、クダリはトレインの先頭車両に辿りついた。憔悴したクダリを支えるのはノボリと会えるという期待ばかりだった。足を踏み入れた先に、彼が気難しい顔で待っているのだと。期待していたクダリの心は打ち砕かれてしまった。車両は空っぽのままだ。 頭からすうっと血が引いていくのを感じた。どうして。またノボリは忘れているのだろうか。うっかりやの彼のことだから、クダリとの約束を忘れて予定を入れてしまったのかもしれない。叫び出したい衝動に駆られたけれど、シャンデラがその紫色の炎を轟々と燃やして咎めた。ふっと力が抜けて、すんでの所で叫び声が口の中に留まる。 シャンデラは窓の外を真鍮の手で指し示して言った。 「外を見て、マスター」 車両はいつの間にか明るいホームに滑り込んでいたようだ。 クダリを乗せてやってきたトレインは、クダリが恐る恐るホームに一歩踏み出すと急かすように扉を閉めた。慌ててクダリがホームに降り立つ。シャンデラは悠々とガラスを通り抜けてきた。そうして、ノボリの背後に浮かんでいる。 「ノボリ!」 クダリは感極まって、また軋む身体に鞭打ちながら、無理にノボリの隣へ駆ける。 「また会えた。よかった。今度は三週間ぴったり」 「待たせてすみません」 ノボリは形ばかりの謝罪をすると、喜ぶクダリの目を極力見ないようにして、抱えていた花束をクダリに押し付けた。 「これは、お前に、わたくしとギアステーションの皆様からです」 真っ白な菊の花束だ。 「僕初めて見た。ありがとう。でも今日誕生日じゃない」 「これは、……お祝いです。お前の新たな門出を、祝うための」 言い淀みながらも吐きだされる言葉に、けれどもクダリの疑問は止まない。 「僕、どこかに行かなきゃいけないの?」 「もう四十九日になりました。だから、お前は、この先に行かなくてはならないのです」 「どうして? 僕だけなの? ノボリや皆は行かなくていいの?」 「わたくしもじきにお前のところに行きます。ポケモンたちもです。だから、安心して先へ進みなさい」 「今度は、いつまで待てばいいの?」 ノボリは帽子のつばを目深に引き下げて、クダリの追求の視線から逃れる。 「ノボリ」 クダリはそれを許さない。しばらく、空洞を抱えたホームに沈黙が満ちていた。いい加減、痺れを切らしかけたクダリが更なる追求の言葉をかけようとしたとき、ようやくノボリは言った。 「分からないんです。本当は、私だってすぐに続いて逝きたい。けれど、この子たちや職場のことを考えると、もう少し、時間が必要なのです。お前が隣に居ないのも、一人で逝かせるのも、心細くて仕方ないのに。ですが、これ以上お前をここに留めていては、お前は……」 声はどんどん力をなくして、言葉の末は最後まで紡がれることなく小さな嗚咽に取って代わられてしまった。 「あのね、ノボリ、泣き虫」 常には無い兄の様子に、クダリは擽ったそうに笑う。 「仕方ないから、僕、また君のいうことを丸呑みにして、信じてあげる」 クダリは喪服のノボリをぎゅうと抱きしめた。 空っぽのホームに、風が吹き込む。クダリのコートがばたばたとはためいた。遠くからレールを伝って振動が届けられる。音はだんだん大きくなって、ふたりきりのホームには見たこともないような真っ白い一両きりの車両が到着した。車両の前後二カ所にあるドアが、クダリの乗車を促すようにゆっくりと開く。 得体の知れないトレインに乗るのを、クダリは反射的に拒んだ。ノボリの腕へ縋ろうとしたけれど、それは叶わなかった。クダリは自分の身体をじっと見つめている。ノボリは自分の腕をすり抜けていったクダリの手を見遣り、涙声で諭した。 「クダリ、これに乗りなさい。でないと、逝きそびれて、しまいます」 トレインの中はやわらかく暖かい光に溢れている。 乗らなくてはならないのだろう。クダリは観念して笑った。 「あのね、待ってるから」 ノボリはクダリの魂を乗せたトレインが暗闇の中に消えていくのを身じろぎもせず見つめていた。手を振るクダリに振り返す気にもなれず、作った表情は笑顔とも呼べない代物だった。そうして不器用に弟を見届けたあと、自身を除いて他にシャンデラしか居ないホームの隅で、声もなく涙を流した。 七週間、たったの四十九日では、ノボリの傷は癒えきらない。生き写しの片割れを失ったのだ。 傍らのシャンデラは、止め処なく流れる涙を冷たい金属の腕で拭う。 ノボリはひとしきり泣いたあと、すっと立ち上がる。クダリが亡くなったスーパーダブルトレインのホームに踵を返した。目は赤く腫れぼったくなっているけれど、その目線は辛うじて前を向いている。 ホームの一角には、誰が送り主ともわからない花がいくつも手向けられていた。 シャンデラがまた鈴の音で泣いたのを聞いたのが最後だ。クダリはノボリの言葉を忘れないようにぐるぐると反芻しながら、一人きりの長椅子に腰かけて次の駅を待っている。車内をゆったり泳ぐのにも飽きてしまった。今度は話し相手のシャンデラも居ない。車窓から見える景色は、先ほどからこれといって変わり映えもしない。地上を走る電車に乗るのも久しぶりだと思いながら、大小様々な石が積み上げられた河原をぼうっと眺めている。 あんなに取り乱したノボリの姿を、クダリは生まれて初めて見たような気がした。次に会ったときには、怒られるまでからかって、そして、慰めてやろう。それを楽しみにして、この退屈をどうにか凌いでいる。 電車はいつの間にか川に差しかかっていた。 腕一杯の花束を抱きしめる。細やかな花弁のその色は、クダリの好きな、クダリが最期の瞬間まで纏っていたコートと同じだ。その微かな香りを息一杯に吸い込んだところで、眠気が襲ってきた。 どうやら車両は川を渡りきったようだった。 睡魔に任せて、もう眠ってしまおう。久しぶりに身体を動かして疲れているのだ。 あとどれだけ眠ったら、ノボリに会えるだろうか。眠りに就く直前まで、クダリはそのことを考えていた。 * 20131007 相.対/性/理.論『小.学.館』のパロです。 |