禁じられた場所植物文様が高い天井の一面を覆い尽くしている。弦楽器に管楽器、打楽器が変拍子を刻み、クダリが竪琴の弦を弾いて細かな音節に分けられた節を歌う。音は反響して増幅され、怪しい雰囲気を醸していた。明りが灯る青い広間のなかで、ノボリは舞っていた。 ハレムの女たちが、来賓たちの前で肌を晒して官能的に舞い踊る。その背後で管弦楽団が技巧を凝らす。曲線美を惜しげもなく晒して踊る女たちの、褐色の肌や黒い髪、はっきりとした二重の黒い眼を押し退けて、ノボリの銀とも灰色ともつかない髪と目はひときわ異彩を放っていた。上半身を晒し、王が好む青い衣装を纏って、ノボリは腰をくねらせる。そのたびに首元にあしらった装飾や腰元の金属が音を立てて揺れる。広がった裾に決して足を取られることなく、ノボリは軽やかに舞って見せた。すらりと伸びる腕も、二の腕半ばほどから掌までを薄い布で覆われている。クダリの高く間延びした声に合わせて、ノボリは煌びやかに青い布地をはためかせた。 隣国の使節団は、王お抱えの後宮の者たちを食い入るように見つめながら、文様が刻まれた青い杯を煽る。その目は粒ぞろいの奴隷たちへの欲望を孕んでいる。ハレムの中でも歌舞音曲に秀でた者たちばかりが集められているところを見るに、今回の接待は余程の事情があってのことだろう。クダリはノボリが集めている視線の多さにうんざりしながら、文様の刻まれた琴を作法に則って掻きならした。 ノボリとクダリはこの国の生まれではない。彼らの住んでいた小さな侯国はこの国に吸収され、二人は戦争捕虜として後宮に連れ込まれた。砂漠ばかりの苛烈な気候の国で、ノボリとクダリの透き通るような肌の色と色素の薄い髪と目は、各地を征服し民族が入り乱れるその国でも際立って異質だった。加えて瓜二つの双子の奴隷ときた。ハレムを統括する王は、美しく珍しいものを好んでいた。いくつもの理由が重なった結果、亡国の二人は生き延びた。そうして他の後宮の女たちがそうであるように、国の言葉や王好みの古典音楽・舞踊を叩き込まれ、閨の作法も仕込まれた。ノボリはしなやかな四肢と柔らかい身体を武器にしての舞踊に秀でた。クダリは指先の器用さと独特の響きをした声を生かして、管弦楽と歌において比類なき才を発揮した。それぞれの分野での才覚を認められた二人は、宮殿の敷地の隅にある、ハレムと呼ばれる後宮で暮らしていた。 ハレム。この国の言葉で、禁じられた場所、という意味を持つ。文字通り、王とその後宮に住まう者以外は立ち入りを許されない場所だ。性別を問わず寵姫・寵臣を擁する王が、今最も執着して止まないのが、ノボリという一人の男であった。 宴が終わったのは大分夜が更けてからのことだった。ハレムの者たちは皆そそくさと人目を避けるように自らの根城へ引っ込んでゆく。隣国のお偉方の眼鏡にかなった者たちは、明け方まで眠りに就くことはできない。 「ノボリ様」 王に付き従う宦官の男が、踊りの余韻冷めやらぬノボリの元に小走りで駆け寄る。そしてひっそりと、ノボリの手に白いハンカチを手渡した。 それが王の誘いの作法であった。ノボリに拒む権利は与えられていない。 「はい、ただいま」 クダリに目配せし、諦めの色を交わす。今夜も共に過ごせそうにない。ノボリは絹の布を握り締める。王に選ばれなかった女たちの、恨めしげな、あるいは憎悪の籠った視線を受け止めながら、ノボリは準備のため一旦後宮へ向かう。 ノボリの視界の端で、クダリは白い絹の衣装の裾を翻し、使節団の副官に寄り添って、客間へ消えていった。 夜明け前、ノボリは王の元で湯浴みを済ませてから後宮へ戻った。 他の寵姫と同様に、ノボリとクダリには小さくはあるがそれぞれの個室が与えられていた。他人の元で夜を明かした後には、ノボリはクダリの所へ真っ先に転がり込んでいた。クダリもノボリがするようにそうしていた。女奴隷と同じ扱いを受け、女のように他人に暴かれ抱かれることを、生きる術とはしてもそれを良しとはしていない。 王の権力が頂点に達したと言われて久しいこの国は、そろそろ凋落へ向けての兆しが見えはじめていた。政治が乱れれば、王はそれだけ後宮の者たちを、とりわけノボリを必要とした。今回のような領土交渉をしにやってきた隣国の使節団を接待し、国庫の潤沢さや人材の豊富さを見せつけるために。あるいはささくれ立った王の無聊を、時には王の好む音楽で、時には王の好む身体でもって宥めるために。 「おはよう、お疲れ様、ノボリ」 金属がぶつかりこすれ合う音でクダリは目を覚ました。ノボリがやってきたのだ。クダリは自分の狭い部屋の中で、綿織物のストールに包まって横になっていた。使節の男にあてがわれたのだろう。肌触りのいい白い布をノボリは初めて見た。西の異教国の趣がある、クダリに似合いの純白だ。ストールで隠した口許から発せられる穏やかな声。それは僅かに掠れていて、夜を明かしたせいもあろうが、クダリは常よりも疲弊しているようだった。 「おはようございます。大丈夫でしたか、クダリ」 クダリの傍に腰掛けたノボリの声も、気づけば酷い有様だった。ノボリは咳払いをしながら、クダリに微笑みかける。 「うん、平気。ノボリの声、すごいね」 「あなたも大概ですよ。わたくしは舞踊が専門なので、いいんです」 軽口を交わし合っても、クダリの表情は晴れない。疲労が色濃く残っているクダリの目をじいと見つめて、微かな声で呼びかける。 「クダリ?」 「なんでもないよ。昨日のひと下手くそでつまんなかったから、思い出してむかむかしてきた。ノボリ、キスしよう。とびっきり気持ちいの」 返事を待たずに、クダリはノボリの手を掴んで引き倒した。 「貴方、いいんですか、声」 「偉い人にすっごく愛されたよっていちいち口で言うの、面倒」 「なるほど」 ハレムの者たちは寵愛を受けることがステータスとなるのだ。得心がいったようにノボリは白々しく答えて、唇を受け入れた。互いが他の男に身体を明け渡した後は、出来るだけ二人で睦み合うようにしていた。そうしなければ感覚が麻痺してしまうのだ。 二人は、二人だけのものだ。そう心にも身体にも刻みつけるために、二人は繋がりあう。 横になったまま唾液を交わした。荒い息使いが二人きりの部屋を満たす。絡めた互いの舌を扱き合い、心地よさを共有する。角度を変えながら飽きるまで貪ったあとに漸く唇を剥がして、クダリはノボリの肌に残された鬱血痕の上に、書き換えるように吸いついた。ひ、と敏感な身体から微かな声があがる。それに気を良くして、ノボリの額や首を飾る宝石を次々と取り去ってゆく。身ぐるみも全て奪ってしまえば、王の寵愛するハレムの踊り子は、ただのノボリになった。クダリが愛してやまない片割れだ。差し込む朝の光に素肌を晒されて、ノボリは身を捩った。 「恥ずかしいです」 「綺麗だよ。大丈夫。今更でしょう」 腕をあげ顔を隠してしまったノボリに愛おしい眼差しを向けながら、クダリは身体を起こす。ノボリを仰向けに転がして、これから侵入するその箇所へ潤滑油を絡めた指を這わせた。 「っ、もう、ですか?」 「ごめんね、時間ない」 小間使いがやってくるまでに全て済ませなければならない。 クダリは緩く立ち上がったノボリのそこを空いている右手でやわく握りこむ。 「ひ、ぃ、っ……あ、う」 そのまま緩やかに扱けばノボリの口から控えめに甘い声が上がった。強情に表情を隠すノボリを咎めるわけでもなく、クダリは中指と人差し指を中へ押し込めた。少し前まで別の男のものを食んでいた穴の中を、余すことなく掻き乱す。繊細に切りそろえられたクダリの爪先が、知り尽くした性感帯を優しく、けれど確かに揺すぶった。ノボリの掠れた声が上がる。 「っあぁ、クダリっ、そこ、ひっ」 直接性感を煽る個所を同時に刺激されて、ノボリは声を耐えきれない。両の腕は、だらしなく喘ぐ自分の顔を隠すのに忙しい。クダリに暴かれるのは、他人にされるよりもずっと恥ずかしい。けれど羞恥心に苛まれた分だけ、快感も充足感も大きかった。 「ノボリ、綺麗。すっごく綺麗」 クダリは快楽から逃れるように身を捩るノボリの痴態を熱っぽく見つめていた。ノボリの中を蹂躙する指はそのままに、ノボリのものから手を離し、自身を何度か扱き準備を整える。 「んっ、もう、いい? 僕、我慢できない」 「はい……貴方も、気持ちよくなって、ください」 ノボリは上体を起こし、腕をクダリの首元に絡める。そしてクダリの赤くなった耳元で同意の言葉を囁いた。 「っなにそれ、すっごく、クるね」 言いながらノボリの脚を割って、熱量を待ち望んで潤むそこへ猛るものを突き入れる。 「――――っ!!」 「はあっ……」 ノボリは息を詰め、喉を反らす。クダリの口からも恍惚とした声が漏れた。ノボリは顔を真っ赤にして目を潤ませる。けれどそれを隠し立てする手段はない。受け入れることに慣れてしまったそこは快楽ばかりを追い求める。それは他の者との接合では決して得られない、愛おしさに満ちた心地よさだ。 他のハレムの者たちは寵愛に飢えていたけれど、ノボリやクダリにそれは必要ない。二人で事足りるのだ。いつの日か自由になれることを願って、二人きりで支えあった。いつの日か自由になれたら、故郷へ帰るのだ。もう国として存在しないけれど、二人が過ごしたその土地に舞い戻ることを、夢見ていた。 「クダリ、クダリぃ……」 「ノボリ。ノボリっ!」 愛しい名前を呼び合い、共に限界を迎えた。二人して荒く息を吐き出す。大した間を置かずにしてしまった所為で、二人の体力は限界に近かった。けれどいつまでも余韻に浸っている訳にはいかない。汚れきった身体を清めなければ身体に毒だ。そのうえ、昼の見回りまでには自分の部屋に戻って、素知らぬ顔をしている必要がある。二人は重い腰を持ち上げて、浴場へ向かった。 太陽はすっかり登りきっていた。浴場で全ての始末を済ませたあと、二人はまたクダリの部屋に戻っていた。 「クダリ、何か、言いたいことがあるんでしょう」 クダリの濡れそぼった髪をごしごしと拭いながら、ノボリは努めて優しく言った。腰に布を巻いただけのクダリは、椅子に腰かけてされるがままにしている。身を強張らせたクダリに、もうキスでは誤魔化せませんよ、とその背後から付け加えると、クダリは観念したように口を開いた。 「あのね」 何度か言い淀んでから、クダリは見上げて言った。 「東から異国が攻めてくるって、この国はもう、駄目だって言われたんだ」 光溢れる朝方の空気に似つかわしくない、暗く澱んだ声だった。 「だから、この国から逃げよう。伝手で、馬を用意できるって。僕ら、馬は乗れる。逃げよう。逃げなきゃ」 堰を切ったようにクダリの口から零れたのは、朗々と歌う声とは違う、怯えを含んだ弱々しい声だった。 「いけません、そんなことを言っては」 「ノボリ……!」 拒絶の声にクダリは面白くない。ノボリのしなやかな腕を包む布を、濡れ手でぎゅっと握りしめる。深い青色が深海のように色濃く染まった。この鉱石から生まれた鮮やかな青色は、王が特に好む色だった。クダリは、無二の片割れが王に染め上げられてしまったようで、どうにも気に食わない。 「僕があいつに騙されてる訳じゃないよ。知ってるでしょう、この国の隅っこがどんどん削られているのは。このままじゃ、また知らない国に連れて行かれて、好きでもない奴らにノボリを取られなくちゃいけなくなる。その前に殺されちゃうかも。そんなの嫌だよ」 言葉の最後はほとんど涙声だった。ノボリとて政情に疎いわけではない。何度も閨の中で苦言を聞かされたかわからないのだ。確かに国の置かれた現状は芳しくないものであった。 それに、誰とも知れない男に片割れを好き勝手にされるのには、ノボリも耐えがたいものがあった。ノボリは布を今にも引き裂かんと握りしめているクダリの手指をゆっくりと引き剥がし、そして握りしめて言った。 「貴方の言い分は、わかりました。ですが、一体どうやって監視の目を潜りぬけようと言うのですか。貴方だってここがどれほど厳重に警備されているか、知っているでしょう」 「……あのね。お願いがあるんだ、ノボリ」 クダリはノボリを抱きしめて、そうして耳元で囁いた。 クダリは熱心に指先で弦を弾いた。国の誇る古典音楽を、異邦の商人はきっと碌に聞いてはいないだろう。彼らの目は音に乗って舞い踊るノボリに注がれていた。 今回はまた別の使節が宮殿へ招かれた。通商特権を求める西の異教徒の一団は、国の西方貿易に一枚噛んでいる者たちであった。それゆえ彼らの要求も無碍には出来ない。商団の長は、双子の寵姫を見たいと言った。陛下の寵愛を一身に受けるという、踊り子と奏者の双子を。ハレムの自慢に余念がない王は二つ返事で承諾し、そして宴が催される広間にはただ二人だけが招集された。 クダリは弦を押さえる指を滑らせる。十二よりもずっと細かく区切られた音律によって、独特の空気が醸される。それを纏って、ノボリは腰を揺らしながら長い腕を撓らせる。指先は物憂げな軌跡を描き、両の手の中指から繋がっている布を虚空へ棚引かせる。指通りのいい深い紺色の布は、ノボリの腕を覆うそれと同じ色をしていた。 ノボリはクダリの奏でる弦の音を追いかける。絡め取られたように両腕を上へ掲げ、裾をはためかせステップを踏む。下げたままでいた視線をゆっくりと持ち上げた。息が上がったノボリの悩ましげな視線を受け止めたのは、使節の長であった。 「既に聞いているとは思いますが」 彼は夜の相手にノボリを所望した。けれど客間へノボリが参じたとき、彼は寝台の上へノボリを手招いたきり一切の手出しはしなかった。 「貴方がたをお助けしたいのです」 男は援助を申し出たのだ。クダリから聞かされていたとはいえ、ノボリは驚きを隠せない。クダリの願いは二つあった。数日後に現れる商団の長の話を承諾すること。それが一つ目の頼みごとであった。どうやら先日の隣国の使節団と、この西の国の商人は共謀してこの国を突き崩そうとしているようだった。 助けたいとは大層な言い分だ。警戒を解かないノボリに、男はそのまま捲くし立てる。 「ハレムは王の代替わり毎に一掃されています。このまま現陛下の治世が終われば、陛下の私生活に与していた貴方がたは、袋詰めにされて南の海へ放られる」 「何を根拠にそんなことを。場合によっては不敬罪で突き出すことも可能ですが」 「前例があるのですよ。奴隷上がりの貴方がたは知り得ませんが、私の国では有名な話だ」 「仮に、そうだとしても。一介の奴隷である私たちに、異国の商人が肩入れなどするはずがありません。目的は他にあるはずでしょう」 男はノボリの灰色の目を見つめて、そうして嘲るように言った。 「……貴方がたは傾国の君なのですよ」 男はノボリの肩を乱暴に押した。抵抗せず、そのまま寝台へ背を預ける。身体を這う手指を感じながら、ノボリは無感動に男の叙述を聞いていた。 「あの王はもう駄目です。それは貴方もよく御存知の筈だ」 灰色の髪を、男は指先で絡めて弄ぶ。 「崩御のその瞬間、貴方がたが傍に居ては、王は最後まで抵抗するでしょう。寵姫を守るため。それでは革命が長引いていけない。手篭めにしたはずの奴隷に逃げられ、心を折っておきたい。牙や爪のない獅子を殺すよりも、格段に容易くなるでしょう」 ノボリは事の全貌を掴めずにいる。饒舌な男はノボリの晒された胸部を撫でさすり、その頂点を指でゆっくりと愛撫した。 「それならば、今ここで、私を殺せば早いでしょうに」 「なりませんよ。それでは私がこの国を生きて出られなくなります。貴方がたの意思で、王の元を去ったという事実が必要なのです」 なるほど、と、ノボリは刺激に耐えながら思う。最初から選択肢は用意されていないのだ。拒絶すれば恐らく、日の目を見ることは叶わないだろう。服を一切乱していない男の腰元には、彫り物が施された短剣がぶら下がっている。 「ですから、明後日、私たちの出国の日取りに合わせて、貴方がたもこの国を脱し、西へ向かってください」 ノボリは微かな嬌声で答えた。 商人の一団が去ったその日、ノボリは再び王のおわす宮殿の中にある豪奢な寝室へ招かれた。とっくに顔見知りになっていた給仕に、夜伽に選ばれた証である白布を手渡す。通されて、ノボリは言いつけ通りに青い舞踏衣装を纏ったまま、慎ましやかに寝台へと上がった。 「陛下、ノボリで御座います。私の貧しい身体で宜しければ、どうぞ、お使いくださいまし」 三つ指をついて一例し、いつもの猫撫で声で笑う。気を良くした王は、ノボリを対面で抱きかかえ、晒されたままの背中を撫で上げた。ノボリは背筋をすっと伸ばすと、か細く声をあげて王を喜ばせる。手触りのいい布に包まれたノボリの腕も、王の逞しい背へ回された。そのまま唇が合わさると、王が貪るのに合わせてノボリは舌を差し出した。口づけに夢中になっている間に、ノボリは王の首元を彩る大小様々の装飾品を一つ一つ丁寧に外していった。 乱暴に奪われるだけの口づけが終わると、王は無骨な指を鎖骨から下へゆっくりと這わせていった。そこかしこから与えられる刺激にわざとらしく声をあげながら、気取られないよう、ノボリは両の手の指先から伸びる布地の感覚を確かめた。 クダリの、もう一つの頼みごとだ。 寝台の上で重なりあう影が二つある。 一つは寝台に腰掛け、跨っている影を下から突き上げていた。それより細身の影は、抱きかかえられるようにして、腰を揺らしている。しばらく揺さぶられたあと、細身の影は自らを苛む影の方に腕を預ける。腕がたおやかな布を伴って不自然な軌道を描いた。そして、両の手が左右にぴんと張られた。 首を絞められた王は酸素を求めて足掻いた。ノボリの腰を掴んでいた指に力が籠り、肌を苛む。けれどノボリの両腕の力は緩まなかった。男は観念したようで、いくらか時間を置いて、事切れた。 ノボリは夢中になるあまり、部屋に侵入したクダリに気づくのが遅れた。 「ノボリ」 背後から声がかけられた。慌ててノボリは男のものを体内から抜き去る。声を上げないように、熱で潤んだそこから意識を反らす。熱っぽい呼気が口から零れた。 「出来たね」 「……っ、はい、やりました」 クダリの願いは、王を殺し、異国の者たちの助けを借りて、この国を抜け出すことだった。 ノボリを貫いていた王の目に、既に光はなかった。苦悶の表情の中に僅かばかりの安堵が見て取れたのは、ノボリの都合のいい思い込みだろう。その首元には、彼が愛した色の布地が巻きついている。その布の先には、ノボリの白い手指が繋がっていた。間違いなく、ノボリが殺したのだ。余計な尺を巻きつけていた所為か、掌には布地に締め付けられた跡が赤く残っている。 王は声こそ上げなかったが、ノボリの腰に断末魔より性質の悪いものを残していた。 「酷い爪痕。血が出てる。大丈夫?」 「そりゃあ痛いですよ」 「ごめんね。治療してあげたいし、身体もほんとは綺麗にしてあげたい。だけど時間がないんだ」 「平気です。けれど」 腰に浮かび上がる指の痕は、ノボリの衣装では隠しきれない。こんな物騒なものを引っ提げて出歩くわけにはいかなかった。 「あのね。これ服の上から着て」 クダリは脇に抱えていた黒いローブを差し出した。これも偉い人から貰った、と、クダリは言った。 「やっぱり、君には青なんかじゃなくって黒が似合うよ」 クダリはノボリと同じ色の目を嫉妬の炎に染めている。僅かとはいえ、最愛の片割れと他人との情事を覗き見てしまったのだから。黒服に袖を通したノボリを、クダリはぎゅうと抱きしめた。 ノボリはクダリの背中越しに間抜けな格好で死んでいる男を見遣った。クダリはノボリから離れると、男の命を奪った布を破れないよう丁寧に首から外した。そして隣国の男から与えられた織物を取りだす。 「時間稼ぎにしかならないけど、やらないよりマシでしょう。行こう」 その端を咥えて裂き、ノボリの指先を繋ぐその布と同じ太さにし、王の首に巻きつけた。 閨事が始まってから、給仕は引っ込むのが通例であった。二人は心配になるほどあっさりと王の寝室を抜け、王宮を出る。そのまま二人の根城がある後宮へ、用意していた最低限の荷物を取りに帰った。なけなしの宝石や貴金属を掴み、ノボリはクダリと並んで、後宮の裏手へと駆け戻った。宮殿の敷地を抜けるには東西南北に据え付けられた門か、後宮への運び入れを楽にするための小さな通用門か、いずれかを通る必要がある。クダリが選んだのは後者だった。 女たちが眠る大部屋の前を駆け抜ける。靴はありったけの布で包んで、極力足音を殺す。見張りの人目を避けながら、二人は通用門が見える位置まで辿りついた。二人で建物の角に隠れる。門を守っているのは兵士一人きりだが、丸腰の二人が正面から出向いたところで太刀打ちできるほど甘くは無いだろう。けれど小さな通用門を彼に気づかれず抜けるのは不可能だった。 「クダリ、このままでは門番に」 「大丈夫、ノボリは黙ってて」 クダリはノボリを門の影に隠しながら、堂々と門番の元へ近づいた。 クダリはそうして二、三言交わしたあとで、門番の首に腕を回し、口づけを交わした。ノボリは茫然としながらクダリを見つめる。クダリがノボリに聞こえる声で手招くと、ノボリは飛び上がったように影から姿を現わして、恐る恐るクダリの元へと駆け寄った。 「ありがとう。それじゃ、夜明けまでには戻るからね。あいしてるよ」 門番の兵士に白々しく愛の言葉を投げかけたクダリにくっついて、ノボリは俯き加減に門を抜けた。そんなノボリを見て、クダリは無邪気に笑いかける。 「上手く行ったでしょう」 唇を袖でごしごしと拭う。 「あの人、僕のこと好きみたい。悪いけど、ちょっと協力して貰っちゃった」 そうしてクダリはまだ二人の後ろ姿を見送っている門番へ手を振ってみせた。きっと彼は夜明けとともに処罰されるだろう。あるいは王殺しの共犯者として首を撥ねられるかもしれない。そんな男を見遣る笑みの中に妖艶なものを感じ取って、ノボリはそうですか、と小さく零すに留めた。 月明かりに照らされた乾いた街の中、馬に鞭を打って、二人は東へ向かって駆けいった。早く都を抜けなくては。夜風を切って馬は進んでゆく。東に向かえば、かつて故郷であった場所に辿りつけるはずだった。 「ねえ、僕らの国に行こう」 クダリはさも当然のように言った。先日の商人の顔が脳裏を過ったけれど、彼の都合のいいように動かなければならないわけではない。 「そうしましょう。他に行くあてもありません」 そこには何もないことを、二人は分かっていた。国内にいては、いずれ捕らわれ処罰されるであろうことも。けれど、望郷の思いが失われたわけではない。 持ち出した荷物では、国に帰るまでが精々だろう。金になるものもいくつか掴んできたが、都の近くで換金しては、すぐに足がついてしまう。いずれにせよ、一旦都を離れる必要があった。 二人はまるまる三日馬を走らせ、闇夜に紛れながら、どうにかそこへ辿りついた。 廃墟と化した煉瓦造りの平屋は、二人がかつて暮らしていた場所だった。そこは長い間空っぽのまま放って置かれていたようだ。数年前に戦禍に巻き込まれ、以来活気を失っていたその街に取り残されていたのは老人ばかりであったから、家主を失った家の面倒までも見切れなかったのだろう。幸か不幸か、二人を見知った人物は、街の中には居なかった。 今世の王の崩御、そして派閥の違う王の即位の知らせがその街に届いたのは、二人が宮殿を逃げ出してから五日目のことだ。 「ここを出よう」 新たな王が即位したからといって、旧政権の者たちが行方をくらましている二人を見逃してくれるとは限らない。逃亡は早いに越したことはなかった。ノボリはハレムから持ち出した金品をすべて売り払い、必需品を集めた。そして二人は身分と船の旅券を買い、南に向かった。そこには見渡すかぎりの海が広がっている。一角に港があり、貿易船と客船とが入り乱れて停泊していた。いつかの商団も恐らくこの港を経由したに違いなかった。二人は最も出港時間の早い帆船へ、貿易商を装って搭乗した。それは西へ向かう船だった。 クダリはデッキから身を乗り出して青一色の景色を眺めている。振り返れば、ついさっき出てきたはずの港は芥子粒ほどになっていた。そのほかは、ただただ水面が広がるばかりだ。海はどこまでも暗い色を湛えていて、吸い込まれていきそうになる。その水底の色は、ノボリが後宮で纏っていたあの衣裳を思い起こさせた。 嘗ての王がノボリと青に執着した理由はクダリには計りかねる。彼の元へ呼ばれる回数は、クダリよりもノボリのほうが上回っていた。自分にはあの紺も青ともつかない色は似合わないだろうなあと思う。あれはノボリの纏う雰囲気があってこそだろう。クダリはもっと明るい色を好んだ。たとえば、今纏っているような白を特に。 クダリは後宮で過ごした数年間をあれこれ思い起こしてみたけれど、大した感慨も湧かないように感じられた。国の言葉と芸を身につけられたのは今後も役に立ちそうだ。 もう片割れが他人に奪われるのをみすみす見逃す必要もない。それだけでクダリは満足だった。ノボリがどう考えているのかは、クダリの知るところではなかったし、聞くつもりもなかった。 「あまり身を乗り出すと、落ちますよ」 より深淵を覗きこもうとして上半身を柵の外へ投げ出したクダリを、いつの間に隣に来ていたのだろう、ノボリは呆れたように咎める。クダリは逆さまの視界でノボリを捉える。クダリと色違いの黒い行商服は、どんな色よりもずっとノボリに似合っているように見えた。こうでなくては落ちつかない。 「じゃあ、落ちないように、握ってて」 クダリは笑いながらノボリの指を絡め取る。ノボリはそれをぎゅうと握りしめた。 * 20130801 |