伝わらないこと





 わたしが孵ったのはノボリのベッドの中だった。
 破って出てきたタマゴの殻が散乱する分厚い柔らかな毛布の中、完全に視界を奪われてしまっていたものだから、わたしはしばらくの間何もわからないでじっと辺りを見回していた。
 はたして布団の中には白く柔らかい脚があった。産まれたてのわたしにはそれが人間の脚だという知識は欠片もなかったので、それは薄暗い中にぼんやりと輪郭を浮きだたせたオブジェかなにかのように認識していた。
 ずいぶん長い間わたしはぼうっとしていたように思う。
 静寂を破って、暗闇の外からぼんやりと音が聞こえた。 それはどんどん近くなってきて、やがて暗闇は取り去られた。わたしは驚いて手近にあった柔らかく生温いそのオブジェへと縋る。するとその脚の持ち主は「へ?」と素っ頓狂な声をあげて引っ込めたのでわたしも驚いて声をあげた。

「驚かせちゃった? ごめんね!」

 わたしが初めて見た人間は、主人たるノボリではなく、わたしの親にあたるオノノクスの主人の、クダリだった。

「ねえオノノクス! 君の子どもだ! ノボリ! タマゴ孵ったよ!!」
「……どうしてわたくしのベッドにタマゴがあるのです」
「ノボリお寝坊さん。孵ったときに誰も側にいないと寂しいよ」
「きょとんとしてますけど」

 突然明るくなったと思ったら同じつくりの顔がふたつあるのだ。 驚かないでいられようか。

「こちらはクダリ、わたくしの弟です。そしてわたくし、ノボリです」

 白い脚の持ち主はベッドの上で居直るとわたしの脇へ暖かい手を差し込んで抱き上げた。

「はじめまして、貴方はわたくしのキバゴですね」

 それがわたしが初めて感じた他の生き物の温度だった。
 冬に差し掛かろうとする、秋も終わりの寒い朝、わたしは孵った。







「どうですか、オノノクス」

 平気です、というかわりに努めて呑気そうな声で鳴く。

「わたくしは心配しているのですよ」

 ノボリは拗ねたように見上げてみせるとわたしの頬へ手を添えた。常にはない主人の不安そうな目は、何も痛みもないはずの身体の奥底を鬼火のように炙る。
 わたしよりもずっと長く生きてきたはずの彼はどうしてかわたしよりも頭半分ほど小さい。オノンドであったころはずっと見上げてばかりだった彼を今は簡単に追い抜かしてしまった。そのうえ力もついたので彼一人くらいならば傷付けずに抱き上げることも容易い。彼よりも自分のほうがよっぽど頑丈で逞しい身体をしているのに、主人たちはわたしがバトルで怪我をするたびに甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。特にわたしの育ての親であるノボリのほうはそれが顕著だ。貴方はスーパーでしかバトルができません。それゆえ屈強な相手ばかりで、貴方のこの立派な牙が傷つかないか気が気ではないのです。とはわたしの初陣の後に投げかけたノボリの弁だった。
 あのころと違いわたしは段違いに場数を踏んだ。けれど彼の恐れる事態を避けることはできなかったのだ。
 今回はわたしと同族との一騎打ちとなった。竜の舞を積んだわたしは気が荒だっていた。予期していた逆鱗の指示を聞くや否や、頭の中を空っぽにして全精力を使い果たすまですべてを蹴散らした。だから気がつかなかったのだ。鋭く研がれ手入れの行き届いた相手の牙によって、わたしの牙の端が欠けてしまったことに。視界の端で、先っぽが三割ほどなくなっている牙を見て、ああこれも欠けることがあるのかと混乱する頭で辛うじて認識することができた。気づけば自分よりもいささか小さな身体の同族が倒れ伏していた。勝ったのだ、と思うのはそれからだった。

「ですが大事なく良かったです、本当に」

 ノボリはわたしの牙にいたくご執心のようだった。バトルが終わる度に、彼は手袋越しにわたしの牙を撫ぜるのだ。そして何かを確認して、安心したように身を寄せてくる。主人たちはわたしとのスキンシップは勿論のこと、手持ちのポケモンたちとの触れあいを特に好んだ。
 絶妙な体長の差でわたしの喉元に収まったノボリは、その小さな身体でわたしを包もうとする。わたしの牙にも臆することなく、背中へ腕を回す。
 姿かたちが変わっても、あの日ノボリに与えられた温度を変わらず感じることができる。わたしはその温度にひどく安心するのだ。







 父たるオノノクスが死んだのは、わたしがオノンドから進化して間もなくのことだ。そのオノノクスは双子がその親から引き継いだポケモンだった。彼の欠員を埋めるのがわたしの役割なのだと認識していた。よくわからない道具を持たされひたすらに同じポケモンばかりを倒し続けることも、技の射程を誤らないための訓練も、必要に応じて力をセーブする特訓も、全て必要にして不可欠なものだと教えられた。
 天寿を全うした父のその実を、わたしはよく知らない。バトルビデオの中、主人たちの指示で雄々しく舞うオノノクスの姿は、栄誉あるサブウェイマスターのポケモンとして、ノボリのオノノクスとしてそれに足りるだけの全てを持っているように見えた。次はわたしが立たねばならない境地。わたしを襲ったのは震えだった。

「気合は十分というところですか」

 歓喜にも近い震え。ノボリを、そして彼の矜持を守ることができるのは、このわたしなのだ。主人は武者震いなどと都合よく解したらしかった。そのほうがわたしにも具合がいい。ぐるぐると喉の奥で応じると、彼はわたしの背をその滑らかな手で撫ぜあげた。
 ノボリとクダリの属する人間という種族は、わたしたちポケモンよりもずっと長い時を生きることができる。その成長はわたしたちのそれと比べてずっと遅いし、進化もしない。ただ少しずつ背が伸び肉がつきやがて衰えていく。わたしはノボリの今しか知らず、幼いころを知らない。けれど、わたしの生涯をノボリはすべて知っている。わたしがノボリの生涯すべてに寄り添うことは、もとより不可能なのだ。種族が違うのだから。だからせめて、ノボリにはわたしの生涯を全て見届けて欲しいと思うのだ。この短い命が尽き果てるその瞬間まで、わたしはこの主人の許で戦っていたかった。







 牙が欠けてからというもの、わたしの戦績は緩やかに右肩下がりとなっていった。
 不調はすぐにバトルに現れた。平衡感覚の狂いから身のこなしや体重移動が少しずつ上手くいかなくなったのだ。サブウェイでは車体の揺れをいかに上手く受け流し利用するのかが白黒を分かつ。サブウェイマスターのパートナーとしては致命的なことだった。
 ノボリが何も言わないことが何よりも恐ろしかった。ミスをすればフォローの言葉がかけられる。彼のほうがわたしの何倍も萎れた表情をするのだ。いっそ叱責してもらえたならどんなに気が楽だっただろうか。申し訳なさはもとより、期待をされていないのではないかと不安がどんどん澱み凝って、ますますわたしは本来の力を発揮できなくなってしまう。よくない連鎖を引き起こしていた。

「……きっと、スランプなのでしょう」

 しばらくの間、一緒に居てくださいまし、と預けられた先は見知らぬ小屋であった。もしかしたらお払い箱になったのだろうか。負けてしまったから。慣れないなりに何度も考えたが、気持ちは尚沈んでいくばかりだった。
 そこに共に預けられたメタモンは、モモンの実の色を薄めたような透き通った体をしていた。これならわたしの牙で不用意に傷つけることはないだろう。双子がおやであるメタモンは性別をもたないものらしいが、わたしにはどうにもそのメタモンは同性であるように思えた。それくらい彼は気安く話しかけてきたし、わたしも気を許すことができた。
 初めて小屋――そこは育て屋という名前らしかった――の中で顔を付き合わせたとき、彼は、「またお前さんか」とぷるぷるの体をくてんと草臥れさせた。

「はじめまして、だと、思いますが」
「ああ、じゃあお前は子どものほうかな。大きくなったなあ。親より大きいし、牙も立派だ」
「ノボリに牙はありませんよ」

 それにわたしに抱き込まれてしまうほどには小さい。

「マスターのほうじゃない。お前さんの、血のつながったほうの親だよ、白いほうが世話してるオノノクスだ。あいつは元気かい」

 わたしは虚を突かれ高く鳴いた。

「……彼は死にました。ずっと前に。クダリにはわたしの兄弟がついています」
「そうかあ。早かったな」

 メタモンはあっけらかんとして言った。種族によって長短はあれど、大抵のポケモンの寿命はとても短い。四半世紀も生きればそれは祝福されるべき長寿と言っていい。わたしもこのメタモンも、ノボリやクダリから聞かされていることだった。だからわたしはなかなか巡り会えないバトルの機会に心踊らせ、その一戦一戦を全うしようと決めたのだ。
 早くノボリの許へ戻りたかった。わたしが居ない間には、わたしよりも少し若い、クダリのダブルバトル用に調整されたオノノクスが、ノボリの側に居る。喉の奥の奥、心臓に近いあたりに何かが詰まったような心地がした。

「またバトルがしたい」

 わたしは口癖のように言った。育て屋での日数が重なる度、ノボリは育て屋の老主人のもとへ顔を出すことが増えた。その度にわたしの姿を探しては、目が合うと悲しそうな顔をして去っていくのだ。その手許にはタマゴがあることをわたしは知っている。メタモンが教えてくれた。マスターが持っているのはキバゴのタマゴだ。

「マスターたちが、お前さんたちの次の世代の準備をしようとしているのは確かなんだ」
「どうして。わたしはまだ戦えるのに」
「保険だ」
「ほけん?」
「お前さんたちオノノクスという生き物はな、まず牙から弱りはじめるんだ」

 彼の言わんとすることがわからない。
 ぽかんとしているわたしに、咎めるような声が投げかけられた。

「気がついてないのか。お前さん、治ってないんだよ、牙が」
「嘘だ」

 次の瞬間には、目の前に鏡を貼ったかのように、わたしが現れる。そしてわたしと同じ声で言うのだ。

「嘘じゃない」

 右の牙は鋭く収束するはずの先端を失って、不恰好に鈍い輝きを放っていた。

「マスターが話していた。もう二、三日したらお前さんはまたマスターの所へ戻れる。バトルだって出来るぞ」

 瞬いたその隙に再び弾力のあるその身体に戻った彼は、自失のわたしを慰めるように語りかけた。

「お前さんはまだずっと若い。だけどな」

 わたしはどうしたらいいのだろう。

「心の準備は、しておくに越したことはない」

 何のための準備をすればいいのだろう。わたしは死それ自体を怖いとは思わない。恐ろしいのはノボリの傍を離れることだ。







 育て屋から引き取られたわたしが最初に向かったのは、ライモンのポケモンセンターだった。そこでいくつかの検査を受けてからわたしは自宅へ、つまりノボリとクダリの家へ帰った。数週間ぶりのことだった。いつもならばボールから放たれたあとはポケモン専用の広い部屋へ入るのが常だったが、オノノクス、と手招かれてノボリの部屋の扉を身を屈めてくぐった。
 ノボリの部屋の中は変わらず雑然とものが置かれている。わたしを引き取ってセンターに寄るために、ノボリは休みを取ったようだった。クダリはまだ彼のオノノクスと共にサブウェイに居るのだろう。静かな部屋のなかで鍵がかかる音がやけに響いた。ノボリは後ろ手にドアを施錠したようだ。

「貴方に黙って育て屋に預けるなんて真似をして、ごめんなさい」

 そうして改まったようにわたしに対峙して言った。

「牙が欠けたままでは心配でした。サブウェイで戦うことが貴方の……身体に大きな負荷をかけてしまっているのは、事実です」

 ノボリは言葉を選んでいる。元よりポケモンの寿命が短いのはそう決まっていることだ。サブウェイに立つことを選んだのはわたしで、わたしが求めて止まないのは貴方の隣に立って戦い、貴方の矜持を守ることなのに。
 伝える手立てを探して、わたしは沈黙した。

「貴方は本調子が出せないうえに、わたくしも本調子ではない貴方に動揺してしまっていた。バトルのときもわたくしの気の迷いが貴方の不調の原因のひとつであったことに間違いありません」

 否定を伝えるためにありったけの力で首をぶんぶんと振った。

「貴方は本当に優しい子だ」

 ノボリの口許が少し綻んだのを認めて、わたしは安心する。目が優しい曲線を描いて細められたことに、満足する。

「貴方を怒らせたかもしれません。不安にさせたかもしれません。それでも、無理を承知でお願いがあります。オノノクス。また共に闘ってくださいますか」

 拒む気持ちは爪の先ほども起こらない。再び最終車両の舞台に立つことが出来る喜びに、わたしはノボリの手を取った。
 けれど彼と向かい合って、わたしは、その真っ直ぐな視線に応えることが出来なかった。

「どうしたのですオノノクス、貴方」

 目を逸らしたのは、わたしの中に澱んでいた感情のせいだ。
 わたしが居ない間どうしていましたか、少し痩せましたか、牙の欠けたわたしが貴方の隣に立っていいのですか、どうしてまた撫ぜてはくれないのですか、わたしではもう貴方を守れませんか、タマゴはもう孵りましたか、わたしがお払い箱になるのはいつですか。
 わたしは死ぬまで貴方の傍に立っていたいのです。
 いっそ成長しなければ、それそこ幼いキバゴのころのままで居られたら、こんな葛藤が生まれることもなかったのかもしれない。手放しでノボリの傍に寄り添っていられたあのころを、わたしは恋しく思った。進化しきってこのまま老いてだめになっていくだけのわたしは、ひたすら彼へのどろどろとした感情と向き合っていかなければならない。
 初めてわたしは人の言葉が使えないことを悔やんだ。伝えたいこと、聞きたいことは腹の底からどんどん溢れてくるのに、わたしのこの喉はノボリにとって意味ある音を出せない。感極まってわたしはどうすることもできなかった。得体のしれない衝動に胸を鷲掴みにされて、目の奥が熱くなって、視界がどんどん水浸しになった。
 一度溢れ出したら涙は止まらない。
 ノボリはわたしにとって無二だった。
 けれどノボリにとってわたしは換えがきく一匹のオノノクスなのだ。分かっていた。ポケモンからトレーナーへはただ一筋の綱しかないというのに、それを辿った先に居る彼はいくつもの手綱を握っている。そんなことはとうの昔に、それこそ、サブウェイで戦うようになったころに、嫌というほど思い知らされたというのに。
 どうして今更涙が止まらないのだろう。

「……寂しかったのですか」

 ノボリはその小さく細い身体で静かにわたしを抱きとめた。しばらくぶりの温もりに泣きながら喉をごろごろと鳴らす。そしてまた、彼はわたしの気持ちの上辺だけを掬い取って都合よく解釈する。

「わたくしも寂しかったですよ、オノノクス」

 本当はわたしだけにしてほしい。
 わたしだけに貴方を守らせてほしい。……できることなら。到底無理な願いだ。ノボリの背に回した腕にぎゅうと力を込める。

「貴方がこんなに甘えたがりだなんて、わたくし知りませんでした」

 わたしの腕の中、穏やかにからかいの言葉を零しながら、柔らかな頬を喉元へ寄せる。こんなときでも彼に与えられる温もりは変わらずわたしを包んでくれる。きっとその顔には、母が子を慈しむような笑みがたたえられていることだろう。
 彼の笑顔が、対等に愛しあう者へ向けられるいとしさに満ちたそれに変わることはきっとない。
 そう思ってわたしはまた、少しないた。




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20130609