花手折るひと







「兄さん、いい加減にしなよ。何回目だと思ってるの」

「今年に入って3回目だと記憶しています」

 兄に氷嚢を渡す。赤く腫れた頬は痛々しいが、幸い口の中は切れていないようだ。当の本人は飄々として、悪びれもしていない。

「別にお客さんに手を出すなってわけじゃないけど、もうちょっとマシな別れ話できないの?」

 ギアステーションに泊まりこみの繁忙期を終えた休日前の夜、兄は恋人の元へいそいそと向かったと思ったら2時間もしないうちに右頬を腫らして帰ってきた。僕はそれを見て、またか、と肩を落とす。酷い終わり方をして帰ってくるのも、左利きの恋人を捕まえるのもこれが初めてではない。
 兄は、いい意味で奔放な人だ。僕と違って頭が柔らかい。僕では決して取らないだろう選択肢でも、兄の手にかかればうまく事を収めて回してしまう。そういう柔軟性を僕は羨み、そして尊敬していた。
 尊敬する兄の、尊敬できない一面を知ったのはそうそう昔のことではない。人当たりもよく融通のきく性格の兄は交友関係で困ることは無かったし、気付けば女性とくっ付いては離れて、それでいて後腐れなく立ち回ることができていた。女性の影は常にあれども、私生活や仕事に影響の出るような付き合いはしていなかった。それが、僕が新たに彼女をつくったのとほぼ時期を同じくして、兄に不穏な動きが見えはじめた。交際する相手を選ばなくなったのだ。そのときに出来た彼女とはそれなりに長く続いたのだが、もう今は人妻となっている。僕の付き合いが終わっても、兄の渡り癖は終わらなかった。同性とも、兄は躊躇いなく抱き合い、女性とするように舌を絡め、そして寝る。
 兄に迫る人間は、老若男女さまざまであった。僕らのサブウェイマスターという地位に目が眩んだ人間も少なくはなかったけれども、いわゆる一般トレーナーや非トレーナーといった廃人から遠い人々は、兄の占める地位なぞ関係なしに兄を捕らえようと躍起になっていた。
 兄の身持ちは堅くない。兄はどこにも留まろうとはしないようだった。アゲハントが花から花へと移りゆくように、次々と相手を変えて、決して一人の相手に執着しなかった。心に決めた方が居るのですよ、とは兄の元恋人を伝って聞いた彼の弁であるが、僕は理解に苦しむしかない。それほど思い詰めているのならば、他人で遊んだりしないでその本命に操立てでもすればいいのに。肉親たる僕が言うのもなんだが、兄は本気を出せばどんな相手でも手篭めに出来てしまうのではないだろうか。早くいい人を落としてモノにしてしまえばいいのに。けれども兄が振られて帰ってくるたびに、今度のひとも本気じゃなかったのだろうと安心するのも、また事実であった。

「約束を破ったのはあちらのほうです。わたくしは誰かのものになるつもりはありませんから」

「……そのつもりなら、相手に期待させるようなこと、しなければいいのに」

「だから約束したのですよ。なのに打たれてしまって。シャンデラのおかげでこれだけで済みましたけれど」

 兄が修羅場に陥るたびに牽制約となっているシャンデラは、モンスターボールから飛び出してきて兄の赤い頬を気遣わしげに撫ぜた。鳴り響く鈴に似た声には確かに心配と、そして少しの悲しみが見て取れた。

「ああシャンデラ、貴方は心配してくださるのですね。毎回危ないところを助けていただいて、申し訳ない」

 口ぶりからも、氷嚢が添えられた頬の腫れからも、きっと今回の相手も男だったのだろう。兄はおそらく僕よりも腕っ節がない。平均よりは確実に下だ。そんな兄が力技でそのへんの男を退けるにはやや無理があった。だからジャンデラをはじめとする屈強なポケモンたちの出番となる。

「……あんまり遊び過ぎると、そのうちひどいしっぺがえしをくらうよ」

「すでに一発いただいてますね」

 くすくす笑っている兄に、僕は出来るだけ大きく溜息をついて救急箱を仕舞った。明日までに赤みが引いているといいのだけれど。


 兄の恋人ごっこは日に日に僕の目につくようになっていった。兄の恋人たちから、弟さんからもなんとか言ってほしい、と口利きを頼まれることも少なくない。兄は決してひとところに腰を据えたりはしない。だから仮に恋人が居ようとも、他の人に求められればそれに応じた。僕はそういう人たちから兄の奔放さを吹聴されるたびに、唯一無二の肉親が傍迷惑をかけている申し訳なさと、尊敬する兄がそんなことをする訳がないという憧憬とで、胸が締め付けられる。兄もそうなのだから僕も、とかいう見境のない輩も多かったから、その段階で不穏分子を排することができるのは大きいのだが。兄に弄ばれたという自称被害者の数は両の手に余り、僕はもう数えるのをやめてしまった。




**





 左手で弄んでいたボールペンがデスクへ落ちた。書類におかしな線ができていないことに安堵する。今、デスクには僕と事務員しかいない。ノーマル・スーパー共に連勝数を稼いでいる目ぼしい挑戦者が乗ってこないため、今日はもう僕の出る幕はなさそうだった。かたや兄のほうはノーマルのほうに乗りこんで挑戦者を待ち構えているところだ。ややもすれば試合が始まり、モニターに中継が入ることだろう。全車両に監視を兼ねたバトルレコーダーが搭載されていて、その映像はモニタールームで統括されているが、マスター戦だけはギアステーション各所に配信されている。一般路線の駅のモニターにも繋いでいるから、それで僕たちサブウェイマスターの存在を知る人も多かった。それ経由で兄を見初める人物が多いことも、ここのところの悩み草だ。
 中継開始のアナウンスと共に沈黙していたモニターから電車の走行音が流れ出した。そろそろ始まる。事務室内の誰もが固唾をのんで見守っていると、とうとう20連勝を果たした屈強なトレーナーが姿を現した。年若いエリートトレーナーだ。

「ん?」

「? どうかされましたか、クダリさん」

「いや、なんでもないんだ」

 モニターに向けられた兄の背中が小さく身じろいだ気がする。僕しか気にかけなかったところをみるに、見間違えの可能性も高い。第一、トレインに乗っていれば嫌でも車体の揺れに合わせてそうなるほかないのだし。
 僕はそのとき、兄の動揺を看過してしまったのだ。

『本日はバトルサブウェイご乗車ありがとうございます』

 兄の前口上が始まる。

『わたくし、サブウェイマスターのノボリと申します。さて、次の目的地ですが貴方様の実力で決めたいと考えております』

『あの』

 それを遮った声はモニターのスピーカーから聞こえた。件のトレーナーだ。

『俺のこと、お忘れですか』

『決してそのようなことは。以前もここノーマルトレインで貴方様とはお会いしておりますね。ルールなものですから、暫しお待ちください』

 押し黙ったトレーナーの表情が冷たくなるのがモニター越しにわかった。彼が苛立っているのはそのことではないのだ。兄は威厳を保ったまま、けれども青年を値踏みするように目を細めながら、朗々と口上を謳いあげた。その口の端は緩やかに釣りあがっている。

『大丈夫ですか。ここ』

 彼は自分の左頬を指差して言った。形ばかりの心配の言葉は、傍から聞いている僕にもその白々しさを隠さない。

『お陰様で! 御心配痛み入ります』

 兄も彼の言葉が本心からのものではないと分かっているはずだ。慇懃無礼とも思えるほど、兄は上品に笑って腰を深く折った。

「モニター管理は今誰が?」

「カズマサが。内線繋ぎますか」

「急いで。ありがとう」

 エリートトレーナーが腰元のホルダーへ手を回し、モンスターボールを掴んだ。彼もまた、左利きだ。僕はいよいよ嫌な予感を振り切ることができなくなった。

「カズマサ、急いで事務室以外の中継切って! 訳は後で!」

『了解しました!』

 彼もトレインの不穏な空気を察知していたのだ。しかしここを除く全てのモニターが切られる前に、事態はよくない方向へ進んだ。

『それでは、出発進行!』

 兄の合図とともに二つのボールが宙に舞うと、すぐさまストーンエッジの指示が飛んだ。響く声は兄のものではない。放たれた鋭い岩は過たずモニターへ、即ちトレイン内へ仕掛けられたカメラへ向かう。映像は途絶えた。相手のポケモンは、モニターにちらりとしか映らなかったが恐らくガブリアスだ。あの素早さではこだわりスカーフを巻いているのかもしれない。しかもトレイン内に複数設置されたカメラを全て破壊するとは、何らかの、それもよろしくない目的がなくてはできない。急いでライブキャスターで兄を呼び出したが、呼び出し音が2、3回流れたあとすぐに切れてしまった。兄の拒絶のサインに、舌打ちを誤魔化しきれない。ふたりきりになって、彼らは一体どうするつもりなのだ。

「クダリさん! 指示を!」

 古馴染の事務員がライブキャスターを見つめる僕を叱責した。急いで指示を飛ばす。

「っ、管制室、トレインを待機線に誘導後緊急停止。あとギアステ内にアナウンスを。計器の破損ってことにしておいて。一般車両はそのまま。最寄りの駅員はトレインの停車を確認次第、至急車両へ向かって」

 先日兄をぶん殴ったのが彼であるという確証はないが、試合前の不穏なやり取りからも兄と何かがあったのは事実とみて間違いない。今は兄を守ってくれるポケモンも3体のみで、しかも相手にも手持ちが同じ数だけいる。間が悪いことにノーマルの21戦目の手持ちには、兄を守り慣れたシャンデラも、ガブリアスに対抗しうるオノノクスも居ないのだ。そして兄本人の腕力では肉弾戦になった途端負けが確定する。悪い材料しか揃っていない。
 兄の身に何が起きようとしているのか。腹いせにトレインにまで乗り込んでくるのだから余程のことだろう。悪い想像ばかりが先走って、気管に何かが詰まったかのように、胸が重苦しい。不安なのだ。痴情のもつれは恐ろしいものだ、と、僕は兄の姿から何度も教わってきたじゃないか。背筋が冷えていく。急いでポケモンたちの入ったボールをベルトへ据え付けた。目指すはサブウェイマスター専用執務室だ。職員の戸惑いの声も無視して僕はギアステーションの廊下を駆け抜けた。そこには僕のボックスと通信可能のパソコンがある。部屋に駆け込み機械を立ち上げ、目当ての子が見つかるとすぐに引き出した。間髪入れずにボールを放って、ランクルスと対面する。

「いきなりごめん。久々のところ悪いんだけど、お願いがあるんだ」

 この子はサブウェイで戦わせている手持ちたちを含めてもかなり長い付き合いの子だ。おっとりな性格のランクルスは久しぶりの呼び出しにも不機嫌な顔ひとつせず、得意気に両腕を振り上げて応じてみせた。




**




「どういうおつもりですか」

「邪魔をされたくなかった、それだけです」

「御用件は」

「まだしらを切り通す算段ですか?」

 相手は、ノボリが応じない限りは退かないつもりだ。
 音声録音用のレコーダーはまだ生きているかもしれない。迂闊なことを口走っても、口走らせてもいけない。クダリが聞いているかもしれないのに。

「ダストダス、計器にきあいだま」

 場に出てガブリアスと対峙したままの彼女へ指示を飛ばす。命令通り技が計器にとどめを刺すのと同時に、車体の不規則な揺れを感じた。非常時対応マニュアル通り、トレインは待機線に向かったのだろう。タイミングが良かったのかそれともトレインには不慣れなのか、相手には感づかれていないようだ。目の前に対峙する青年は、壊れてトレインの床に落ちたレコーダーを黙って見つめていた。これで車内の会話を誰かに聞き咎められる心配はなくなった。お互い好都合というものだ。射殺さんばかりに自身を見つめる男に向き合う。

「最初にお伝えしたはずです。わたくしは誰のものにもならない、なれないと」

「貴方は俺に心を許してくれた。俺を選んでくれた。違いますか」

「……なにか、勘違いをされているようだ。貴方様が、わたくしを選んだのです。わたくしは、何も選んではおりません」

「確かに最初に手を出したのは俺です。でも、貴方は拒絶しなかった。俺を受け入れてくれたんでしょう。俺だから。なのに、なんで、他の男に手を出すんだ」

 ノボリはいらだちを隠しきれない。何かと賢しい顔をしていた青年が、もはや駄々をこねる子供にしか見えなくなる。どうにか説得して押し返そうという目論見は甘かった。見誤った。言葉が通じないのならば、また前回のように相手に手を出させ、こちらが被害者になればいいだけの話だった。

「わたくしが貴方様を受け入れる? 面白いことを仰る。身体を繋げたくらいで調子に乗らないで頂きたい。わたくしが今までに通じた人数を、貴方様はご存知ないとでも」

「過去のことは関係ない! 俺が居れば、他はいらないでしょう!!」

「それはわたくしが決めることです。最初にお話した通り、これは遊びなのです。わたくし以外にわたくしを縛ることはできません。わたくしに不満があるならば、この関係はそこで終わりだと、約束致しましたね。自惚れも大概になさい」

「この……! あんた男のくせに! サブウェイマスターのくせに! 人として恥ずかしくないのか!!」

 もう年下に手を出させるのは止めておこう。ノボリは無感動に、取り乱した男を見つめた。自信に満ちているその実は、自意識ばかりが膨れて親の威を借り驕っているだけの、器の小さい男だった。それも見抜けないほど、近頃の自分の目は腐っていたのだ。エリートトレーナーは目を血走らせ、筋を失った罵声しか垂れ流さなくなった。

「年下だからって馬鹿にしやがって、この男狂いの廃人め! マスターのあんたがこんな変態だと知ったら、反対派の父さんが黙っちゃいない! 失職くらいで済むと思うなよ!! 地下鉄ごとお前を潰してやる!!」

 彼の親は財界にそこそこ口が利く男で、けれども利権絡みでバトルサブウェイを快く思っていないことは彼の口から何度も聞かされていた。けれどもノボリは彼の言葉など全く 意に介さない。ノボリもまた、彼同様に伝手があるのだ。彼はそれを知らない。
 トレインは徐々に減速していく。

「わざわざご自慢のお父様のお話をしにいらっしゃったのですか?でしたらバトルが終わり次第、早急にお引き取り頂きたい。運営の邪魔です。今回は貴方様のポケモンが興奮のあまり技の射程を見誤ったということにして差し上げましょう。事件ではなく事故であるとね。そして、警察に突き出されたくなければ、御子息たる貴方様の失態でお父様のささやかな経歴に傷をつけたくなければ、二度とこのわたくしの前に姿を現わさぬよう、お約束くださいまし」

「ふっざけやがって!!」

 ノボリはなるべく相手を煽る言葉を選んで流々と言った。そろそろ、我慢が解かれてもいい頃合いだろう。ノボリの読み通り、男はガブリアスを引っ込め、新たなボールを放った。

「大爆発だ!! ゴローニャ!!」





**








 破損したトレインの修理には2週間ほどかかるということだった。
 それまでノーマルのシングルトレインはもちろん運休になり、ついでだからとギアステーション内のバトルサブウェイ関連施設が3週間の点検期間を取ることになった。車両点検はカナワの整備士たちが行ってくれるので、僕らは必要書類さえ片付けられれば、普段の勤務よりもずっと仕事は少ない。だから鉄道員たちも、心おきなく僕らに有休の消費を迫り、僕らも普段ほどの抵抗もなくそれを了承することができた。
 停車したノーマルシングルトレインの7両目にテレポートで駆けつけたときには、既に列車内は惨状だった。爆発みたいな広範囲技に合わせて耐久性を上げているから、車体の外見に大きなダメージはない。けれど車内の備品はそれほど強固なものではないのだ。岩の突き刺さった長椅子や引きちぎれた吊革を、そして倒れ伏している兄と瀕死のダストダスを見つけたとき、全身から血の気が引いたのを覚えている。
 ダストダスが身を挺して兄を守ってくれたおかげで、兄は大爆発を至近距離で受けながらも奇跡的にかすり傷で済んだ。相手のトレーナーは咄嗟にポケモンを入れ替えリフレクターを張ろうとしたが間に合わず、爆発の衝撃とゴローニャの纏っていた岩の破片を一身に食らって気を失っていた。自業自得だ。彼はポケモンセンターへ運ばれ、意識を取り戻してすぐに警察へ突き出された。彼は二度、ノーマルシングルで兄と対面したことがあったようだ。彼の所持品からトレインの監視カメラの位置が記されたメモが見つかり、以前とは手持ちを一新したことやゴローニャにノーマルジュエルを持たせて威力上昇を図っていたことが事前のレポートで発覚すると、彼は兄への加害意思を持っていたと認め、今後バトルサブウェイへ出入り禁止となった。

「兄さん、本当に大丈夫?」

 右頬に絆創膏を貼ってやる。この頬に触れるのも何度目だろう。兄のおかげで僕は怪我人の扱いには慣れていた。破片が擦っていったであろう頬には浅く赤い筋が刻まれてしまっている。ソファで寛ぐ兄の表情は穏やかで、隣で険しい顔をしている僕のほうがまるで怪我人のようだった。

「貴方は心配症が治りませんねえ」

 兄の間延びした声は薄暗いリビングにそぐわない。本人はこれまたけろりとしているが、事態はそう簡単には収まるものではない。今回の件で兄の私生活に問題があることは一部の鉄道員に明らかになってしまった。幸いまだ外部メディアには漏れていない。早急な火消しが必要だが、緘口令でも敷けば噂はかえって広まってしまうだろう。こればかりは身から出た錆だけれども、しばらくの間は難しい対応を迫られる。そのためには、発端たる兄には大人しくしていて貰わなければならない。サブウェイの客足に響けば、上も黙っていないだろう。

「もう、こんなことやめようよ。今回は兄さんが無事だったからよかったけど……。ギアステの皆にも心配かけちゃったし、僕だって気が気じゃなかった」

「心配をかけたことは謝ります。けれどひとの惚れた腫れたに首を突っ込むものじゃ、ありませんよ」

 ソファの背凭れに上半身を投げ出し、口調だけは穏やかに言う。

「ねえ兄さん。目を見て話してよ。逸らさないで」

 トレインの中で何があったのか、そして加害者の青年とはどういう関係だったのか、そんなことを問いただしても兄はきっと沈黙を貫く。直接聞いても無駄なのだ。
 あのとき車内で発見したレコーダーのうち、特に損傷のひどいものは半円状に潰れた状態で発見された。鋭い岩が貫くストーンエッジでは、ああはならない。きっとカメラに止めを刺したのは、兄のポケモンだ。先発のダストダスならばきあいだまでカメラを抉るのも造作ないだろう。自らトレインの備品を壊して憚らないほど、あいつとの会話を他人に聞かれたくなかったのだ。僕にさえも聞かせたくない話。それが面白くない。
 兄は敢えて話を流そうとしたが、僕はそれに乗らなかった。兄のほうへ半身を向ける。突然のことに身構えて僕を見つめるその眼光は鋭い。けれどもその表情には微かな怯えが見て取れた。

「お願い。早く本命の人でもなんでもとっ捕まえて、腰を落ち着けてよ。このままじゃ兄さんが持たない」

「……」

「居ないわけじゃ、ないでしょ?本気で好きな人」

「……わたくしにその方の気持ちが向くことは、ありませんよ」

 兄は初めて見る顔で言ってみせた。声音も口許も確かに笑っているときのそれなのだが、伏せられた目は間違いなく苦痛を訴えていた。兄は不味くなると目を真っ直ぐ見なくなる。感情を隠しきれずにいる兄に、僕は常にはないざわめきを覚えた。

「それって男の人?」

「ええ」

「で、……左利き」

 相手を探り出した僕に、兄は身を強張らせて非難めいた視線を寄越した。これでひるんではいけない。

「どういうつもりですか」

 左利きの知人を片っ端から頭の中で羅列する。この中に兄の本命がいるのだと思うと気が気でない。

「……兄さんがそんなに臆病なの、どうしてかなって。兄さんが本腰を入れれば、落とせない人なんかいない、と、思う。僕は、兄さんには幸せな恋愛をして欲しい。知ってる人なら、協力もできるし……」

兄はとどめを刺されたかのように一瞬目を見開いて、そして首を横に振った。

「駄目なんです」

「ねえ、兄さんらしくないよ。いつもの自信満々な兄さんはどこいったのさ。何が駄目なんだい」

「……クダリ、いつものわたくしは、貴方からどのように見えていますか?」

「……ええと。自信たっぷりで、堂々としていて、柔軟で、掴めない。どんなに劣勢になっても、諦めない、って感じ」

「……貴方が望む兄の姿が、そうであるのなら」

「今なんて?」

 独り言です、とぼそりと零した兄は、それから大きく深呼吸をして、再び僕に向き合った。どうやら意を決したようだった。

「クダリ、今からわたくしが言うことは、他言無用でお願いします。それと、どうか、黙って最後まで話を聞くと、約束して下さいますか」

 ソファの上で兄の拳はぎゅっと握りこまれている。
 たっぷり10秒は間を持たせて、僕は兄の覚悟に報いることを決めた。

「僕が兄さんとの約束破ったこと、一度でもあったかい?」

「そうですね」

 兄は苦笑交じりに答える。けれどもその柔らかい目元のまろみも、すぐに引っ込んだ。

「わたくしが本当に愛しているのは」

 再び深く息を吸い込んで、身構えた僕を真っ直ぐに見つめて、一思いに言った。

「貴方なんです、クダリ」

 後頭部を殴られたような、重く鋭い衝撃。

「……そんな」

「信じられませんよね。けれど、本当のことです」

 兄はまた苦笑いで僕に応じる。
 こんなときにかけるべき言葉を、僕は持たない。

「約束ですよ、黙って話を聞いてください」

 言葉を探して口ごもる僕に言う。

「気持ち悪いでしょう。わかりますよ。男であるうえに、血を分けた兄弟です。わたくしだって最初は恋心だなんてこれっぽっちも思っていませんでした。信じられない、という気持ちの方が大きかった。だからわたくしは自分は女性が好きなのだと確認するために色々な方とお付き合いしました。そうしてちゃんと男としての本能が残っていることに安心しました。最低ですね。彼女たちには申し訳ないと、思っています。それに貴方は、それほど頻繁に付き合っている様子ではなかったので、わたくしは胡座をかいていたのです。当面クダリと共に居られると。けれど、貴方がまたお付き合いを始めたとき、思い知ったのです。わたくしたちはいつか分かたれるはずなのだと。だからといってそれが貴方に迫っていい理由にはなりませんけれど、それが一押しになったのは確かなのです。わたくしは、男性が好きなのかそれともクダリ自体が好きなのかを確かめようと、……男性との関係も了承するようになりました。後はご存知の通りです。結果としては、わたくしは貴方にしか心を傾けられないのだとわかったのです。……ここまで言ってしまっては説得力のかけらもありませんが、この想いは、墓場まで持っていくつもりだったのですよ」

 兄の声は最後までぴんと張りつめていて、その目はまだ真っ直ぐ僕を見つめていた。決して嘘偽りのない、告白であったのだ。けれども僕にはその言葉の意味を、一度で理解できない。だって、思ってもみなかった。兄が追い求めているのが、この、僕だなんて。信じられない。そんな素振りを見せたことが果たしてあっただろうか。呆然とする僕に、兄はさらに畳み掛けた。

「わたくしは、生まれてからずっといちばん貴方の傍に居たのに、最後まで気付いてくださいませんでしたね……なんて、貴方を責めるのは筋違いですね、ごめんなさい」

 表情は後悔と寂しさに塗りつぶされているように見えた。

「だから、わたくしが本命と結ばれることはあり得ないと言ったのです。……例えば、例えばですよ、わたくしが貴方に抱いてくれと、頼んだとして、貴方はわたくしの願いを叶えてくださいますか。無理でしょう? 気持ち悪いでしょう? それが、わたくしと貴方が決定的に違うところです」

 畳み掛けられる言葉の重さに、僕はただただ言葉を失う。そんな僕の沈黙を、兄はどう受け取ったのだろう。無理に笑おうとして作り損ねた表情の殊勝さったらなかった。

「クダリ、お願いします、このことは忘れてくださいまし。でないと、わたくしたちは家族に戻れなくなってしまう。勝手な願いだとわかっております。けれど、わたくしは貴方には一切手出しを致しませんし、この気持ちもいずれなくしてみせます。それまでは貴方に近づきません。わたくし、一度ここを出ていきます。だから、どうかわたくしの家族で居てはくださいませんか」

 以前、僕は兄のことを蝶のようだと皮肉った。いつアリアドスの毒牙にかかってしまうかもわからないよと。けれども違った。兄は決して自分からは迫らないかわりに、誰も拒絶しない。兄は地に根を生やした花のほうであった。摘み取ってくれるただひとりの人間をただひたすら心待ちにしながら、あるいはそのまま枯れていく未来を実感として強く受け止めていたのだ。
 誰にも、それこそ兄にも言ったことがないが、兄が男に手を出しはじめて間もない頃、知らない男性とキスをしている兄の姿を目にしたことが一度だけあった。ギアステーションの影でひっそりと抱き合っていた兄の背に、男性の節くれ立った手が這うのを僕は絶望的な気持ちで見つめていたものだ。あのとき不思議と嫌悪感は催さなかった。代わりに僕を満たした、やり場のない怒りに近いもの、それが何であったのか今では手に取るようにわかる。
 嫉妬だった。
 基となる愛情のベクトルは限りなく家族愛であったとしても、兄を誑かす不届者に対する紛れもない妬ましさがそこにあった。
 ここで引き留めなければ、兄は僕のそばを離れてどこかへ行ってしまうのではないか。そして今度こそは、きちんとした遊びなんかじゃない相手を見つけて、二度と僕の元へは帰ってこないかもしれない。
 引き留めなければ、という一心で僕は同じ体格のその人を抱きしめた。

「クダリ……、っクダリ!」

 兄はか細く呟いてから、我に返って背へ回された僕の腕を引き剥がした。抱きとめたぬくもりが離れていく。

「ごめん! いきなり……」

 僕を睨んでやまない目からは、今度こそ涙がこぼれ落ちていた。何かを言わんとする口元は、けれども非難の一つもこぼさない。

「それと、辛いことを言わせて、ごめん」

 何も知らずに唆した僕を、兄はどれほど恨めしく思ったことだろう。

「でも、兄さんが大事なのは、変わらないよ。だから、僕らはこれからも家族でいるし、どこかに行く必要なんかないよ」

「正気ですか!? そんな気もないのに……! 貴方は、熱に浮かされているだけです。道を誤ってはいけません」

「確かに、僕は気が動顛してるかもしれない、だって兄さんが、僕のことをそんな風に思ってたなんて知らなかった。でもね兄さん、どうしてそんなに怖がってるんだい。僕ら、男同士でそれも双子なのに、小さい頃からずうっとべったりだったじゃないか。こんな年になっても普通に抱きあうなんて、そのへんの双子じゃあそうそうないよ。兄さんを追いかけてくっついているのが僕の当たり前だったから、それくらいじゃ僕はひるまない。昔は普通にしてたでしょ。それこそキスだって」

「そんなの詭弁です! 昔のわたくしたちとは、考え方も立場も違います。わたくしは、貴方と、普通の恋人がするようなことをしたいと思っている。家族にそんなことを思うなんて……、っ異常です」

 詰る声が震える。

「ねえ兄さん、自分のことを悪く言うのはやめて。自分を否定しないで」

「知ったような口をきかないでください! 何も知らないのに!」

 声はまるで悲鳴のような響きを帯びていた。兄のあんまりの剣幕に、僕の小賢しい頭はうまく回ってくれないで、言葉に詰まってしまう。
 そうだ、僕は兄のことを何も知らなかった。手酷い仕打ちを受けて帰ってくる兄を宥めすかしているうちに、誰よりも近くに居るのは僕であるはずだと、兄のことを一番分かっているのは唯一の家族たる僕なのだと、勘違いしていたのだ。頭がすうっと冷えていくのがわかる。血の気がだんだん引いていく。

「……ごめんなさい、感情的になってしまって」

 気遣う兄の声はどこまでも僕に甘い。

「あのね、兄さん」

「もう、何も言わないでください。お願いです」

 兄は目にいっぱいの涙をたたえて、僕を退けようとした。その手は力なく僕の肩を突っぱねようとするけれども、僕はその手首を絡め取って、抵抗を諦めた兄に柔らかい声で語りかける。

「……ごめんね、約束破るね」

 掴んだ手から、兄のこわばりが伝わる。拒絶の言葉を待ち構えているのだろう。
 どうしたら、どうしたら兄を安心させることができるのだろうか。この人を繋ぎ止めていられるのだろうか。頭の中はそれだけだ。
 気づいたら身体が勝手に動いていた。
 悲鳴と、乾いた音が鼓膜を震わせた。僕は兄の震える肩を再び掻き抱いて、その唇を奪ったのだ。

「ああ……なんてことを!」

 今度は僕が頬を腫らす番だ。理性が緩んだ一瞬の隙、衝動的に任せて兄にキスをしてしまったのだ。幼い頃は、事あるごとに泣いてばかりだった僕をこうして兄が慰めてくれていたから。涙目で強がる兄の姿が、いつかの自分に重なったのだ。

「……昔、よくしてくれたでしょう。ちょっと変だなって思ったけど、僕は、ほんとはきらいじゃなかった」

 それもスクールに上がって間もなく、人目を気にして拒んでしまった習慣なのだが。
 僕の左頬を張った兄の右手を、僕は利き手の左手で掴んで離さなかった。
 兄は、どのような気持ちで僕との日々を過ごしてきたのだろう。たわむれに触れて抱き合う、僕にとっては双子のささやかなスキンシップであったそれも、兄にとっては全く別の意味あいになっていたのだと思うと、自分の鈍さにほとほと呆れるしかない。
 かつては、兄がどんどん僕の知らない兄になっていくのを、指を咥えて待っていることしかできなかった。兄の幸せを祈るくらいが精々だったのだ。けれども今ここで新たな可能性が浮上した。僕が、兄を受け入れることができれば、兄の宿願は遂げられるのかもしれない。兄が幸せになれるのかもしれない。他の誰でもない僕が、兄に幸福をもたらすことができるとしたら。そんなことを考えてしまったのだ。

「同情なんて御免ですよ」

 僕とのキスが冗談であると、一時の戯れであると、軽い口振りで兄はそういう風にこの場を収めようとしているのがわかった。
 同情、そう、僕の行動は傷心を哀れんでのものだと詰られても仕方がない。間違いなくその気持ちもあるのだ。けれども今からの僕の一挙手一投足は、すべて自分のために行うことだ。ひとえに、兄を他所へやってしまわないよう、僕の元から離れていってしまわないようにするための。

「このタイミングでこんなこと言うと、ほんとに同情みたいに聞こえてしまうかもしれない。けど違うんだ。僕を信じて欲しい」

 僕は兄の冷たい右手を両の手で包みこむ。意味がわからない、と訴える兄の視線は、繋ぎとめたれた手を所在なく見つめている。

「僕がいちばん嫌なのは、兄さんが僕の傍を離れていってしまうことなんだ。だから、できることなら一緒に居続けたい」

 右手に僅かに力が籠るのを掌で感じる。

「そんなの、わたくし、生殺しではないですか……」

「そう、このままだと、僕は兄さんの気持ちを利用してしまうだけになる。だから、かわりに、兄さんも僕のこの気持ちをいいようにしてくれて構わない」

「貴方にしてはずいぶんと出来の悪い冗談ですね」

 言葉にはわずかに嘲りの色が見て取れた。けれど怯まず手を握り締めた僕に、兄は観念したかのように柔らかく口元を綻ばせた。

「なんて、貴方はいつでも大真面目でしたからね、本当に、可笑しいはなしですが」

 この場がひとまず収まればいい。突拍子もない僕の提案は、果たして兄に受け入れられた。ずいぶん無理な賭けだったけれども、その綻びの多さにも目をつぶって、兄はまたふわりと笑ってみせる。その目にもう涙はない。

「では、わたくしに時間をください、わたくしの気持ちを知った今、可能ならどうかわたくしを遠ざけないでください、これが、わたくしの願いです。……受け入れるかどうか、判断は貴方に委ねます」

 それでは、と、兄は僕の拘束をするりと抜けて、二の句を許すことなく自室に引っ込んでいった。大きく一息つく。
 吐露したことで少しは兄の心が軽くなってくれればいい。あれだけの言葉を抱え込んでいただなんて、それも今回のようなことがなかったら、ずっと隠したまま生きていこうだなんて、僕にはできない。それだけ兄の気持ちは張りつめたものなのだろう。兄の気持ちに応えることができるのだろうか。いや、応えなければならないのだ。からからになった唇を、僕は無意識に舐めていた。そこにはまだ兄の薄い唇の感触が残っている。
 僕は自分の行動に少なからず驚いていた。兄の前ではなんでもない風を装ったけれども、情けないことに心臓は早鐘のように脈打っていたのだ。口八丁の兄を言いくるめようなんて思っていなかったが、どうにか兄を押しとどめることが出来て本当によかった。手段を選んではいられなかったのだ。しかし、そう、どうして兄にキスなんてしたんだろう。信じられなかった。それが兄にとってどういう意味を持っているのか微塵も考えやしなかった底の浅さも、それに拒絶反応や嫌悪感を抱かなかった自分自身も。兄に想いを伝えられて、驚きはしたけれど、拒もうとする気持ちは不思議と湧いてはこなかった。
 ただ、常にはなく表情を乱し、今にも泣き出さんばかりの弱々しい姿が、どうしようもなく庇護欲を駆り立てたのだ。同い年の同性相手の、それも兄に、庇護もなにもあったもんじゃないのに。
 兄の、異常です、と言い放った苦しげな表情とか細い声が頭から離れない。
 兄の自弁の通り彼がおかしいのならば、その片割れたる僕だってそうなのかもしれない。兄を傍に繋ぎとめておくために、ここまでできてしまうのだから。
 胸のうちを満たしていくこれが愛情なのかはわからない。こんなに苦しくあたたかい気持ちは初めてなのだ。今までの女性たちに感じた愛情とは、どこかが決定的に違う。それはノボリが僕の兄でたった一人の家族だからかもしれない。普通の恋愛のように別れという終わりがないから、どんなことがあっても僕らが血縁であることは何ら変わらないし、死ぬまでずっと兄弟という繋がりのままでいられる。恋人という関係に囚われたり、破局に怯えたりする必要なんかない。だって放っておいても僕らは同じ墓に入る。
 どうしてこんな単純なことに気がつかなかったのだろう。沈み込んだままのソファから重い腰をあげる。
 そう、なにも恋人という括りに拘る必要なんてない。兄の想いを跳ね除けるつもりなんて毛頭ないのだから、今まで通りにしていればいい。元々近しい僕らが、無理に恋人のそれらしく振る舞う必要なんてない。ちょっと普通よりスキンシップの多いだけの、仲がいい双子の兄弟に戻るだけでいいのだ。キスだってきっと昔のように躊躇いなくできる。それよりも先のことは……わからないが、兄を手放さないようにするためなら、きっとできるだろう。
 種がなんであれ、芽吹いた愛を育て上げしまったのは紛れもない僕だ。だから、摘み取る権利は僕だけにある。放っておいて枯らしてしまうことなんかしない。切り取ってしまえば根腐れの心配もないから、心ゆくまで、愛情を注いでやるのだ。










20130508