未必のこい







 クダリはファイルが外付けのUSBメモリに保存されているのを確認して、ノートパソコンの電源を落とした。念には念を入れてライブキャスターにデータを転送しておくのも忘れない。大事な大事なレポートの詰まったファイルだ。これが消えてしまったらクダリは最終手段泣き落としを発動せねばならない。
 椅子を引いて大きく背伸びをする。質素な一人暮らし用のワンルーム、ノートパソコンのほか分厚いハードカバーや新書・選書のたぐいが幅を利かせている机の上、かろうじて乗っかっているカレンダーを見る。もうすぐ週末だ。こちらにノボリがやってくる、楽しい週末。今週のレポートやらテストやらを乗り切れば、一足先に試験期間を終えたノボリと会える。そう思えばどれほど過酷なこの期間も耐えきれる。
 カントーはタマムシ。クダリの住むところはタマムシ大にほど近い住宅街の、学生マンションの一角の手狭な一室だ。成人男性が根城にするにはやや息苦しいスペースだったが、自転車でも徒歩でも通学できるうえに最寄はそこそこの規模のターミナル駅、近隣のヤマブキにもそれほど遠くないとなれば文句も引っ込んだ。クダリは元々ものを多く持たない。現に今、部屋を我が物顔で占領している大小様々な本たちは大学の図書館から駆りだしてきたものだ。財布を気にせず本を買い漁る余裕はない。
 比較的学費の安い国立大を探したといえども、家賃・生活費・雑費を考えればかなりの、ましてやふたり分となればとんでもない負担となる。両親は共にバトル事業に従事していたが、双子のノボリとクダリを大学へ通わせ、加えて一人暮らしをさせるなどといった余裕はなかった。彼らの経済的な事由を解決したのは、両親が寄越してきたひとつの書類だった。
 クダリが作り盛り分けた夕食が、ノボリによってローテーブルへ運ばれる。

「今月分、ちょっと遅れたよね」
「そうですね。二日でしたからなんとかなりましたけど」

 ふたりは協会から、奨学金という形で貰った給付金を生活費にあてていた。条件を満たせば返済の必要はないし、返済が免除にならなくとも利子はつかない。

「僕はきつかったな。今月は外で食べることが多くて。バトルで稼いでなかったら断食してた」

 だからノボリがお裾分けといってお米を持って来てくれて本当に良かった。この日のために新しく覚えたレシピも報われるというものだ。

「困ったらおまもりこばんを持ってリーグにでも行けば一発でしょう」
「僕あそこの人たちには嫌われてるんだ。よくお金稼ぎに行ってるから」
「道理でみなさんわたしに冷たいわけですね」

 ふたり分のいただきます、という声が重なる。食事の最中も、おおよそひと月ぶりの空白を埋めようと途切れることなく会話が続く。互いに口数は多いほうだ。

「こないだまたカミツレから雑誌がきたよ。表紙だった。すごいね」
「わたしのところにも。わたしたちに別々に送るのが手間だとお小言を貰いました」

 三人は小さいころから遊び場の少ないライモンでバトルに明け暮れていた。古馴染として、彼女が描いた夢を着実に実現していっていることは嬉しい限りだ。彼女は自分の載っている雑誌を送りつけることを口実に、定期的に彼らに連絡を寄越してくれている。クダリへ宛てられた手紙には、リーグ公認のジムリーダーとしてライモンシティへ赴任することが決定したとの一報が綴られていた。彼女もふたりと同様に、バトルの腕が立つ。いずれふたりがサブウェイマスターの任へ就くことをライモンで心待ちにしている、とカミツレはやや直線的な字で締めくくっていた。同じ内容がノボリにも届けられていることだろう。

「どっちか片方にすればいいのに。どうせ僕ら月イチで会ってるんだしそれで貸し借りとか」
「そんな面倒なこと、あなたできます?」

 ノボリは、部屋の隅でいろいろなものが一緒くたになっているのを見遣って笑う。文庫程度の本やファッション誌程度の薄いものならすぐに紛れてしまうだろう。

「うーん……紛れて図書館に寄贈しちゃうかもね」

 ノボリは破顔して、クダリの淹れたコーヒーへ手をつける。そうしてやや捲くし立てるように言った。

「それにしても、カミツレ、ジムリーダーにも昇格しましたし、最近CMでもよく見ますし、どちらも好調ですね」
「だね。先越されちゃうなあ」
「……クダリは、どうしますか。このまま院まで?」
「試験に通ればの話だけどね。まあ理系だし」

 そう伝えるとノボリはあからさまに安堵の表情を見せた。

「わたしは今のところリーグを考えてます。イッシュでも、こっちでも、ホウエンでも、シンオウでも。好きなところへ行けるようなので」

 借り入れた金額を返さなくてもよくなる条件、というのが、いずれかの地方のリーグを少なくともひとつ制覇し、かつ協会の指定するバトル施設へ就職することだった。その中には各地のリーグ、ジム、スクール、そしてバトルサブウェイも含まれている。

「それなんだけどね、ノボリ」

 スプーンを置いて向き直る。
 小さい頃からノボリとクダリはバトルに興じる両親の背中を追いかけていた。ふたりが幼いころ、マルチとスーパーマルチの路線が開通し、本格的に操業が始まったバトルサブウェイは、例に漏れずノボリとクダリの幼心をくすぐった。一緒にサブウェイマスターになり、マルチバトルをしようと指切りを交わしたこと、覚えているのは自分だけなのか。

「ねえ、ライモンに戻らない?」
「あなたまさか、カミツレのところに? 確かにあなたは電気タイプが好きでしたけれど」

 なんて白々しい言葉だろう。ノボリが意図して約束の話を避けようとしているのがわかった。いつもなら、ノボリが触れて欲しくない話題はすぐに察して回避するクダリであったけれど、今回ばかりは譲れないのだ。

「……そろそろ僕、怒るよ」
「……、では、バトルサブウェイですか? あなたは、小さいころから電車も大好きでしたからね」
「そうだよ。てっきり、僕はノボリもサブウェイにするんだと思ってた。約束したの、覚えてるだろう」
「ああ、そんなことも、ありましたね」

 事もなげにけろっとしているノボリに、クダリはいらだちを隠しきれない。けれども、逆上しては涼しい顔でコーヒーを啜るこの男の思う壺なのはこれまでの付き合いで嫌というほど思い知らされているから、なるべく理性を見失わないよう、クダリも熱いコーヒーを煽る。

「ノボリは、ライモンに戻る気はないの」
「クダリ、あなたはライモンに戻るつもりなんですか」

 煽るようにクダリの言葉を繰り返す。故郷に戻る戻らない、ということが大事なのではない。ノボリと共にあることができるかどうか、それだけがクダリの関心を引き付けるのだ。
 大学を決めるときだって、クダリはてっきりノボリもタマムシに来るものだと思っていたのに、クダリに黙ってエンジュに行ってしまったのだ。あの時、ノボリもタマムシにしようよと誘うクダリを曖昧にいなして、笑顔を浮かべているだけだったノボリ。事が発覚したときの、あの手酷く裏切られたときの、心のざわめきはできることならば二度と味わいたくない。
 だから、クダリはどうしても言質が欲しい。今度こそノボリを隣に置いておきたかったのだ。

「僕はノボリと離れたくないだけ。それなら僕もカントー・ジョウトのリーグにする」
「あなたは主体性ってものがないんですか?」
「それはノボリのほうでしょう。僕が院に行くっていったとき、ほっとしてたくせに」
「そんなこと!」
「ノボリのほうこそ、僕がいないところに行くってすいぶん消極的な理由でリーグに行くなんて決めちゃっていいの?」

 言ってしまった、と滑った口を後悔する。それよりも、否定の言葉がないことにクダリは小さく絶望した。

「今夜はやっぱりなし。真面目な話で、そんな気分じゃなくなっちゃったし」
「……、そう、ですね」

 空になって冷えはじめたカップの底を、ノボリはじっと見つめていた。





 狭いワンルームの都合上、ふたりが同じ空間で眠るのは致し方ないことだった。気まずさは拭えないままだったが、他にタマムシに当てがないノボリはこの部屋に留まるほかない。加えて、ふたりが会ったときは大抵同じベッドで眠っていた。しないことのほうが少なかった。仕掛ける側のクダリが拒んでしまったので今夜は何もない。何もないけれど、同じベッドで寝る、ということだけはクダリが譲らなかった。背中合わせに眠るのは久しぶりのことだ。

 隣に同じ体温があるというだけで、ノボリはどうにも寝付きが悪くなる。

「クダリ」

 小さく呼びかける声はレスポンスを貰えずに暗闇に落ちる。けれどもふたりでくっ付いて横になっているおかげで、ぴくりと隣の身体が緊張するのがわかった。

「これは独り言なので、あなたは反応しなくて構いません」

 努めて平静を保ち続けている寝息だけが相槌をうった。

「わたしは……あなたと離れたがっているわけでは、ないのです」

 傍らの身体はまだ緊張の糸をぴんと張ったままでいる。

「先程は白々しい言葉を、ごめんなさい。……サブウェイマスターになろうと約束したこと、覚えています。けれど、あなたの隣にいる自分がどうしても想像できないのも事実なのです」

 決して口数が少ない方ではないが、肝心なところで言葉が足りないのは自覚していた。だからクダリがこれで納得してくれるとは思わない。言葉を、内容を選んでいることを、クダリは咎めはしない。

「あなたが大切なのは変わらないんです。それだけは、わかってください」

クダリの張りつめた呼気が、柔らかさを取り戻す。
このままずっと、曖昧に距離を保ったままでいたい。ノボリはそれを望んでいた。

「それでは、お休みなさい」

 一瞬、部屋を静寂が包みこんだ。そのまま静かな夜を迎えるのかとノボリが息を小さく吐いたタイミングで、クダリの声が沈黙を裂いた。

「……僕も」

 クダリは違うのだ。曖昧なものを好まず、きちんとラベルを貼って分類したがる。ノボリとは違って。

「今から独り言を言うよ。ノボリ」

優しく、しかし底を這うような声に、今度はノボリが身体を強張らせる番だった。

「さっきはムキになってごめんなさい。大学を決めたときみたいに、ノボリが黙ってどこかに行ってしまうのが怖いだけなんだ。ノボリが許してくれるならずっと隣にいたい、それだけ。だからノボリが嫌がるなら、なるべくくっつかないように努力はするし、今夜みたいに、一緒に寝ても、しないよ」

 それでもこの関係を辞めようとは言わない。

「僕だってノボリがこの世でいちばん大切。でもね、ノボリの言う大切と、僕の言う大切って、ちょっと違うと思う。僕はノボリを愛しているよ。双子とか男とか、そういうのも関係なく。ノボリのはよくわからないけど」

 自信なさげに投げかけられた言葉は、ノボリの呼吸を詰まらせた。ノボリが意図的に避けた言葉をクダリは求めている。愛していると言ってやればクダリはきっと心底嬉しそうな顔をしてくれるだろうが、それはしてはいけないことだった。言葉に拘るクダリへ、言質を与えることだけはいけない。
 シーツの擦れる音が聞こえる。合間に小さく、よいしょ、と柔い声がした。クダリがノボリのほうへ身体を向けたのだ。そうして、穏やかに言う。

「……それだけ。じゃあね。お休みなさい。明日は笑っておはようが言えるといいな」

 今度こそ、クダリは全ての緊張を解いて穏やかに眠りに落ちていった。クダリは喧嘩を引き摺らない性質なので、その願いは彼によって叶えられることだろう。
 産まれから分かたれてしまったふたりの気持ちは、ふたりがそうであるように、完全には重ならない。ノボリはクダリが求める全て。クダリはノボリが求める全て。その一点においてはお揃いなのだ。しかし求めかたにおいて、ふたりは違う。クダリは大切なものがずっと手許にあることを望んだ。ノボリは大切なものが何にも囚われずにあることを望んだ。
 ノボリは大切なものを愛してしまった。繋ぎ止めておきたいのに、自分が捕らえてしまってはクダリは自由になれない。ノボリが望み、最も愛するクダリは奔放で揺るぎないクダリなのだ。雁字搦めではいけない。ノボリの中で愛しさと大切さは両立し得ない。そこがクダリとの決定的な違いだった。
 ノボリは諦めたようにクダリへ向き合った。寝顔はどこまでも健やかで柔らかい。
 いずれにせよ、明日には何事もなくふたりで朝を迎えるのだ。そのためには目の下に隈など作ってはいけない。ぐるぐるとめぐる考えに終着点が見出せないまま、ノボリは眠りに就かなければならなかった。




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20130205