花開くとき







 あれから兄は、変な輩に引っかかって傷をこしらえて帰ってくることも、どこぞのホテルに転がり込んで朝帰りしてくることもなくなった。知らない相手のところにふらりと出向いて手痛い目に遭って帰ってくることがなくなり、僕の心労はひとつ減ったかのように見えた。事実、しばらくの間、僕の心は以前よりもずっと穏やかだったのだ。
 けれど、新たにひとつ、僕の頭を悩ませることが起きている。
 兄が無暗に出歩かなくなったということは、ずうっと家にいるということだ。僕らは、そうして職場のみならず家でも顔を付き合わせることになった。ふたりで過ごす時間が増えた、といえば耳触りもいいのだろうけれど、実際のところといえば 、僕は兄に真っ正面から向き合わねばならなくなったのである。
 あのとき僕は、兄離れしたくないあまり、傲慢にも、兄の望むものを与えてやろうと決めたのだ。
 けれども。
 正直に言おう、ほんの少し、後悔している。
 兄は僕に、何も求めてはこない。あれだけのことがあったというのに、兄の僕に対する態度は、良くも悪くもいつも通りだった。僕は、そんな兄をどう扱ったものかわからない。あの日のやりとりは果たしてほんとうにあったことなのだろうか。そんなことすら考えてしまう。
 兄は身を切っておいて、僕に深くを求めない。強請られるのは、幼いころに交わしたような軽いキスばかりだ。今まで他の人間で欲望を騙し騙し消化してきた兄が、それきりで満足する筈もないのに。その先を、露ほども匂わせはしない。
 あのとき、僕は、自分の気持ちを兄のいいようにしてくれて構わないと言っておきながら、兄から求められる機会がないことに、ほんの少し、安心していたのだ。
 兄は、僕にどうして欲しいのだろう。どうしたものか、僕はずっと考えあぐねていた。




 風呂上りの潤んだ唇が、ささやかな音を立てて僕のそれに触れた。睫毛の震えまで見通せるような近さに、入浴で火照った同じ顔がある。唇が触れるだけのキスには慣れた。昔はことあるごとにこうしていたのだし、軽いキスならば、家族としての親愛を表すものとして、何の怯えもなくできる。ソファでテレビを観ていた僕の隣に腰を下ろして、兄は僕にぴたりと寄り添った。僕の唇を甘噛みし、まだ温かい指が僕の冷え切った指を絡め取り、弄ぶ。そうして、とうとう、兄は行動に出た。
「明日、半休でしたよね」
 穏やかに、けれども甘えるような柔らかさで、兄は言った。その口から続く言葉を予感して、僕は恐れおののく。
「クダリ」
「ごめん」
 間髪入れずに、僕は紡がれる前の兄の言葉を打ち消す。
「わたくし、まだ何も言っていませんが」
「ごめん……」
 兄の怪訝そうな表情に居た堪れなくなって、僕は顔を背ける。
 僕は決心が付かずにいた。
 このまま流されてしまっていいのだろうか。いつかの、異常です、と言った兄の苦悶の表情と振り絞った声が、僕の頭を占めていけない。あれだけの想いに報いる資格が、今の僕にはあるのだろうか。僕は沈黙するほかない。
「……考えていることがあります」
「……?」
 ひとり頭を抱えている僕を尻目に、兄は言葉を継いだ。
「その気がないのなら、やはり、あのときに、出ていけばよかったのですね」
 兄の中ばかりで話は進んでいたようだった。僕は兄の真意に思い至って声を荒げる。
「どうして……!」
「どうして? それは貴方がいちばんわかっているはずでしょう」
 同情は御免だと、言ったはずです。兄は冷たく鋭い声で、ぴしゃりと言い放った。
「貴方は口ばかりで、わたくしをほんの少しも愛してくださらない。貴方が欲しいのはただの兄なんでしょう? そうならそうと、早く言ってください。……勘違い、してしまいます」
 核心を突かれて硬直する。同時に、僕の葛藤なぞ兄に筒抜けだったのかと思うと、肝が冷えた。
「わたくしは、貴方と結ばれることがないのなら、いっそ家族のままで居たかった。でももう、無理なんです。一度、わたくしは道を誤ってしまった」
 どうすればいい。どうすれば兄を僕の許へ置いておける。失望が兆した兄の目。兄が求めていることは、なんだろう。どうしたらいい。
 抱くしか、ないのだろうか。今ここで。
 即座にその考えを打ち消した。だって、そういうことは了承し合ったうえでするべきだ。了承。あのとき、兄の気持ちを知ったときの、決心を思い出す。
 兄のためならきっと抱けると、思っていた。だけれど、今の僕はどうだ。お誂え向きのこの状況で立ち竦んでしまっている。できない。今この状況で兄の気持ちを聞いてしまった今、僕が生半可な覚悟で相対してはすぐ返り討ちに遭ってしまうだろう。今手を出しては、兄を手放したくないがための行為だと見抜かれてしまう。それは彼を慈しんでのものではない、自分のためだけのものだと。
 兄が求めているのは、僕の心だ。僕があの日に知った兄の気持ちを、受け取ったつもりになっていたのだ。ろくに向き合うこともしないで。
 どうすれば、兄を手許に置いておける。
 僕は言葉も手段もなくしてただただ俯いている。頭の中が真っ白になった。
「クダリ、わたくし、この家を出て行くことに決めました」
 顔を跳ね上げる。向き合った兄の表情は、萎れきっていた。
 僕が水をやるのを渋ったせいで。
 しばらく放心していた僕に今度こそ愛想を尽かせた兄が、音もなく部屋を去って行った。
「ノボリ兄さん……」
 きみが居なくなるというだけで、僕は何もできなくなってしまう。
 彼が開け放って行った扉を、僕は呆然と見つめていた。
 置いていかれた兄のシャンデラが、僕の後頭部をひっぱたいて飛び出していったけれど、僕はあまりの衝撃に身動きが取れなかった。




 今更になって気が付いたことがある。
 僕がどうしてここまで兄に執着しているのか、気が付いたのだ。
 僕は、兄を、ノボリを、愛している。
 兄へのこの執着は、今ではそんな可愛らしいものではなくなってしまったが、きっと恋慕そのものだったのだ。兄が離れてはじめて、きちんと理解した。気がつくのに、どれほどの時間がかかったのだろう。兄に散々鈍いと罵られた意味が、ここにきてようやくわかった。
 大好きな兄に相応しい立派な人間になりたかった。そして常識的であろうとするあまり、少しでも外れることが恐ろしくて、幼いころに交わしていたキスも、「普通」の兄弟がそんなことをしないとわかると僕から拒んでしまったのだ。兄の隣に居たいがあまり、兄弟という常識が作り出した型枠に固執していた。兄弟ならばなにがあってもその繋がりが途絶えることはないと信じていた。
 僕が本当に求めているのは、兄弟という関係なんかじゃなく、兄そのものなのだ。拘泥すべき部分を間違えてはいけなかった。
 兄はあれだけの思いを抱き、実らない恋の予感にひたすら一人で耐えていたというのに。
 僕ときたら、兄の心をようやっと摘み取ったかと思えば、空っぽの花瓶へ活けたまま水もやらずにずっと放っておいたのだ。干上がった兄は、ずっと水を求めていたのに。
「最低だ……」
 どんなに強くうつくしい花々であれ、根元から刈り取られてしまえばそうそう永くはいられない。
 兄を枯らして、駄目にしたのは、僕だ。




 寝起き一番に兄の部屋を訪ねたけれど、そこに兄はいなかった。とりあえず必要な衣類や仕事用具などを一纏めにして出て行ったらしい。家具までごっそりなくなっていなかったぶん、ダメージはいくらかマシだ。まだ兄の私物が残っている以上は、必ず何かしらのものを取りに戻るだろう。仮に、これを機に家を出てしまうつもりであったとしても。
 仕事に支障をきたすわけにはいかない。僕は重い腰をあげて出勤した。プライベートと仕事は別だ。バトルでもすれば少しは気が紛れるだろう。マルチで戦うのは正直なところ気まずいが、もしかするとそれを切っ掛けに兄と話す機会が得られるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。けれども、そんな日に限ってダブル・マルチの稼働率は低い。トレインが動いていない時間は必然的に書類仕事に回される。執務室に兄とふたりきりだが、いかんせん、合わせる顔がなかった。幸い兄は度々シングルのほうに呼び出され、その度に執務室を出入りしていたので、沈黙のままに何時間も密室に閉じ込められることはなかった。
 バトルレコーダーから中継しているモニターの中では、兄のダストダスが両腕を振り上げていた。アナウンスで兄の勝利を知る。バトルの興奮冷めやらぬまま、ダストダスをボールに戻しいつもの口上を述べた。その口許は釣りあがっている。
 兄の笑顔を見るのはしばらくぶりだった。僕の前で笑ったことが、あれから――僕が兄の気持ちを知ってから――ここしばらくの間、あっただろうか。
 職員と話している兄の表情は柔らかい。僕は時折疑心暗鬼になってしまう。もしかしたら、兄と通じた人間が職員の中にもいるのではかないかと。真偽のほどは定かではない。そんなこと、恐ろしくて聞けやしなかった。それに、僕には兄を問いただす権利なんてない。ただの弟だから。
 兄のライブキャスターへ何度も発信したけれど、プライベート用の番号には一切反応して貰えなかった。別に行方を晦ましていたわけではなく、ギアステーションでは必ず顔を合わせている。掴めないのは、退勤してそれからの足取りだけだった。
「兄さん」
「なんでしょうか、クダリ。仕事の話以外でしたら、後にしてください」
 仕事中、ふたりきりの執務室でタイミングを見計らって話しかけても、にべもなく突っぱねられてしまう。完全に手詰まりだった。
 兄は、素知らぬ顔をしたまま完全に仕事とプライベートを二分しきっている。この一週間でマルチバトルを何度かしたけれど、兄の気持ちが読めずに焦りばかりが募ってしまって、手加減の具合を間違えてしまったりした。それを当の兄に指摘され咎められる始末だ。情けない。このままでは、割り切れていない僕のほうが先に駄目になってしまいそうだった。このままではいけない。
「兄さん」
「……なんでしょうか」
 兄は紙面を滑る手をようやく止めて、僕のほうへ視線を寄越した。
「話があるんだ、帰ってきて」
 返事はなかったけれど、僕は、待ってるから、と念を押して、再び書類へ目線を落とした。




 果たして、その日の晩、兄は帰ってきた。また頬を赤くして。手当はしてやらない。いつものようにソファへ腰かけて、足を組みながら兄は言った。
「話、とは、なんです」
「それよりもまず、家を出てる間、何をしてたの」
「実は、カミツレさんのお宅にお邪魔していました。職員の皆さんに貴方とのことが露顕するのは避けたかったので」
「それ、カミツレさんにぶん殴られたって言うの?」
「……これは尻拭いです」
「……また男にやられたの?」
「そうですね、腹癒せに一発、やられました」
 手当て、お願いします、と兄は事もなげに言った。僕が聞きたいのはそういうことじゃない。何時までたってもソファに腰掛けたまま微動だにしない僕に、兄は何も言わない。僕の言葉を待ち構えているかのようだった。
「……抱かれたの?」
 ようやく僕が紡いだ言葉といえば、蚊の鳴くようなものだけだった。傍らの兄に顔向けも出来ず、僕は俯いたままだ。
 言ってしまった。
「クダリ」
 すっと血の気が引いていくのがわかった。兄の静かな言葉が僕に降りかかる。それは絶対零度の響きを帯びていた。
「わたくしを詰る権利は、貴方にはありませんよ。だって貴方は、ただの、……弟です」
 話がないのならばわたくしはこれで、と兄はソファから立ち上がろうとする。
「あるよ!」
 自然と声を荒げ、咄嗟に兄の手を引いていた。そのまま兄は元いた場所へ再び腰を落とす羽目になる。
 それはどちらへの反論だったのだろう。
 ただの弟。そうだ。僕が拘っていたかった最期の砦。だというのに、僕がそれを指摘されたところで、どうしてこんなに苛立ちが隠せないのだ。
 今度は僕のほうがおもむろにソファから立ち上がって、兄の肩を強引に押す。驚いた兄は、しかし抵抗なくそのままソファの座面に背中を預けた。そのまま僕の出方を伺っている。見上げるその表情は、怪訝さより余裕が優っている。
「どういうつもりですか」
 その表情を崩してしまいたい。
「兄さんは、弟としての僕の話は聞いてくれないんだろう。だったら、僕が、ただの弟じゃないって、わからせてあげる」
 僕はほの暗い衝動に任せ、有無を言わさず兄のスラックスを引き下ろした。
「止め、てください! クダリ!」
 予想を裏切った僕に、兄はじたばたと足掻きはじめた。けれども抵抗虚しくあっさりと太腿を晒す。兄の非力が幸いしてのことだ。もしかしたらこんな風に、無理に剥かれたこともあったのかもしれない。そう思えるほど兄の抵抗はしぶといものだった。今のようになすがまま、柔い肌を他人にも晒したのかもしれない。想像すればするほど、僕の機嫌はどんどんと地に落ちて行った。
 下着の淵に手をかける。
「クダリ!!」
 兄が僕の肩を蹴る。身じろいだところで左頬を張られた。乾いた音が耳元で弾ける。痛い。けれど止めない。痛みではこの怒りも収まらないのだ。
「赤の他人にやられてきたんでしょう。もう止めたと思ってたのに」
 兄の表情は凍りついた。
 どうして今更拒む理由があるのか。きみは何人もの人と通じてきたのに。わからない。手を進める僕に、兄の顔はいっそう青ざめていく。兄が両腕をソファに付いて半身を立て直した隙に、下着を太腿半ばまで無理に引き摺り下ろす。
 膝が伸びて、僕の肩をまた蹴り飛ばした。今度は骨に響く一撃だ。じぃんと衝撃が左肩から半身へ伝わっていく。思いっきり蹴りやがった。小さく舌打ちするが、兄は怯まず脚を畳む。腹を狙いにきた渾身の蹴りは咄嗟に引っ張ってきた厚手のクッションによっていくらか緩和された。痛いのには変わりないが。
「ねえ、大人しくしてて」
 僕は左手を振りかざした。
 次いで虚しい音がして、僕の左手と兄の右頬が赤くなる。兄は茫然と僕を見上げる。手足の抵抗はなくなった。僕は兄の首からネクタイを奪って、大人しくなった両手を絡め取った。兄はされるがままにしている。
「僕だって兄さんを傷つけたいわけじゃないんだ」
 中指を、かたく閉じたまま息づいている、兄の、後ろへ添える。
「クダリ、止めてください、後生ですから」
 懇願も僕を止めるには至らない。拒絶しているそこへ指の腹をぐ、と押し当てる。指先に伝わるのは、頑なに拒む感触ばかりだ。兄の身体は痛みと緊張でがちがちに硬直していた。他人はよくて、僕は駄目なのか。僕はきっと誰よりも兄を想っているのに。無理に中へ押し入ると、兄は喉から焦りに上擦った声を吐き出す。
「止めなさい……!」
 これが、つい一週間のうちに暴かれた身体なのか。僕は混乱のままに第二関節まで指を進め、中を探る。指をくい、と曲げて天井を抉ると、兄は驚いたように声を上げた。
「っあっ、……クダリっ!!」
 鋭い悲鳴。そののち、鈍い音が頭蓋骨を振るわせた。
 顔を赤く火照らせた兄の、ネクタイで合わせられた両の手が、拳となって僕の脳天に振り下ろされたのだ。流石にこれには参った。じぃんと痛みが広がる。観念して指を抜き去った。
「っ、……!?」
 まだ体の芯には鈍痛が残っている。追撃から逃れるべく、僕は両手首を拘束されたままの兄から離れた。けれど、僕に降りかかったのは、兄の拳でも蹴りでもなく、切羽詰まった涙声であった。
「っは、なしを聞きなさい! 抱かれたなんて嘘です!!」




 兄は、ふたりの家を飛び出していた一週間の間、本当にカミツレさんのお宅に転がり込んでいた。彼女に確認を取ったから間違いないことだ。渋る兄を尻目にライブキャスターで発信すると、ワンコールで彼女は電話を受けた。開口一番に、カリスマモデルは言った。
「貴方たちほんっと馬鹿ね。こだわりスカーフでじゅうでんしまくるくらいに馬鹿ね。いつまでもふたり揃って足踏みしてて、私にどれだけ迷惑かければ気が済むのよ。お兄さんの次は弟さんの面倒でも見ろっていうの? ごめんだからね」
 でんげきはのように浴びせられる鋭い言葉に、僕は戸惑いを隠せなかった。
「あの……僕らの手持ちにじゅうでんを覚えている子はいませんけど……」
「そういうんじゃないわよこのバトル馬鹿! 私に用があって電話してきたんでしょう!早く要件!」
「えっと、兄がカミツレさんのお宅に押し掛けてしまったみたいで、すみません……それと、兄がお世話になりました……」
「お世話いたしました! 荷物は着払いでそっちに送るから。じゃあ切るわよ」
 彼女は稲妻のように烈しかった。通話は僕の返事を前に途切れる。
 兄はとっくに乱された服を着直して、僕から少し距離を置き隣に腰掛けている。
「うん、兄さんがカミツレさんのお宅にお邪魔してたのは本当みたいだけど……じゃあ、その傷は」
「それは、わたくしに傷があったほうが顕著な反応が返ってくるはず、と、いう建前で、腹癒せにカミツレさまから一発」
「ああ……。じゃあどうして、その、抱かれたとか、嘘言ったの……!」
 さっきは逆上せあがっていて気が付かなかったが、赤くなった頬を除いては、兄の肌にはどこをとっても他人の痕跡なんて残っていなかったのだ
「言ったら、きっと、貴方も行動を起こしてくださると思って……よもや無理矢理なんて、思いもしませんでしたが」
 兄は悪戯っぽく僕を責めた。ちゃんと付き合っているわけでもないのに他の男の影が見えた途端に逆上して、強姦しかけたのだ。今まで兄に拳を振るった兄の元恋人たちを僕は軽蔑していたきらいがあったけれど、そんなの比にならないくらい僕は最低な人間だった。埋まってしまいたい。兄のドリュウズにギアステーションの地下深くまで穴を掘ってもらって、そこに墓を建てよう。本当は兄と一緒の墓に入るつもりだったのに、こんなに不本意な形でそれが崩されるとは思いもよらなかった。勘違いの挙句に暴力を振るって襲いかかって、兄に向き合ってもらうどころか、愛想を尽かされてもおかしくなかった。
「本当に……ごめんなさい……」
 兄の顔を直視できない。今度こそ手酷い拒絶の言葉をかけられてしまうだろう。予感がして僕は身を強張らせた。
「貴方に引っ叩かれたぶんは、此方でお返し致しました。おあいこです」
 語調は、予期していたものよりもずっと穏やかなものだった。人ひとり分空いていた僕らの隙間が、兄によって詰められる。兄は縮こまる僕を見遣って笑っていた。すぐ隣に兄の温もりがある。僕は何が起きたのかわからず、恐る恐る兄のほうへ顔を向けた。
「いつまでうじうじしているつもりですか」
「……どうしてそんな平気で居られるの。僕は、きみを、無理矢理抱こうとしたんだよ」
「貴方はわたくしの一世一代の告白をお忘れですか? 一朝一夕で冷めてしまうほど、わたくしの気持ちは生易しいものではありませんよ」
「それでも、怖かっただろう。あのときは、兄さんは僕のものなのにって、頭がカッとなっちゃって」
「……先程、わたくし、ほんの少しだけ、このまま貴方に抱かれてしまってもいいかと思ったのです。これで貴方がわたくしを手籠めにしてくれるのであれば、と。けれど、あのまま続けていれば、きっと互いに後悔しか残りませんでした。だから止めたのです。これ以上道を間違えるわけにはいきませんでしたから」
「そういうこと言うの、やめてよ。今度こそ、襲うよ」
「焦らないで下さいまし。仕切り直しましょう。シャワー、浴びてきますから。貴方もわたくしの後に入りなさい」
 いつかと同じように、兄は僕の腕からするりと逃れ、リビングを後にした。あの日と違うのは、兄の表情は満たされたかのように穏やかだったということだ。
「わたくしの部屋で、お待ちしています」




 僕は寝間着を纏ったままの兄に縋った。照明を落とすことも忘れて、ベッドに腰掛けたまま兄と向かい合う。表情をまじまじと見られるのが気恥ずかしくて、兄を抱きしめた。
「兄さん、あのね。きみが大好きだよ。ノボリ兄さんを失うのが何より怖いって気が付いたんだ、ようやく。あのときに気が付いて、ちゃんと伝えられればよかったんだけど。待たせてごめんなさい」
 一息に言ってしまった。もう後戻りはできない、と、臆病風を吹かせる僕はいない。
「やっと言ってくださいましたね」
 わたくし、あの日からずっと、夢見ていました。
 兄の囁く言葉が僕の耳を掠める。
「……わたくしと居るときだけは、できるだけ、弟であるということを忘れてください。貴方は、クダリです」
 兄は僕の葛藤を見透かして尚、笑っている。ほとんど同じ時間をこの世で過ごしているはずなのに、敵わない。
 きつく拘束していた腕を解く。背中に回されていた兄の腕が離れていくのを温もりで感じていた。
「……じゃあ、今だけ。ねえ、ノボリって、呼んでもいいかい」
 勿論、と答えた兄の唇に噛みつく。そのまま僕は、形ばかりに閉ざされていた唇を割る。互いに舌を擦り合わせ、息が上がるままにしばらく互いの口腔を荒らしあった。兄の鼻から抜ける高い音を切っ掛けに、ふたりの顔が離れる。兄は、ふ、と目を細めて口許を緩ませる。
「貴方は追いかけてもくれない。言葉のひとつもくれない。わたくしばかりが盛り上がって、いるのだと、そう思っていました」
「ごめんね。僕、自分のことばかりで、きみを、ノボリを手放したくなくて。そのために、兄弟っていう枠しがみついていたんだ」
「謝らないでください。こうして言葉にして貰えるだけで、わたくしは幸せです。後にも先にも、心からお慕いしているのは、貴方だけです、クダリ」
 兄は少し背伸びをして、僕の額へ唇を落とす。ずっと昔、僕を褒めるときにしてくれた、慈しむような口づけだ。
「僕も、愛してるよ。ひとりの人間として。だから、もう居なくならないで」
「そうですね、これからは、ふたりで一緒に」
「うん、ふたりで」
 僕の腕の中で、ノボリはくすくすと笑った。その温もりを受け止めて、綻ぶ唇を再び塞いだ。




 僕は花を育てている。一度は下手を打って枯らしてしまったけれど、ふたりでまた種を蒔いて、水をやって、今、ようやく芽吹いたところだ。もしかすると、今度は萎れかけてしまったり、虫にやられたりするかもしれない。手探りで何度失敗しようと、また再び種を撒くだろう。そうして、遠くはない開花のときを、僕らは心待ちにしているのだ。





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20140109