怒りがそうさせるままにリョウは壁を打った。
「くそっ」
 どうにもならないとは知りつつも低く吐き捨てた。
 行き場を無くした怒りの衝動は彼の中でくすぶり続けていた。ひどい試合だった。コンディションとか運とか、そういう問題ではないのだ。渦巻く憤りを自分以外のどこにもぶつけるあてはない。彼を倒したその挑戦者は、後続の二人に辛勝し四人目のその人にあっけなく散った。彼はそうして、力の差を思い知る。
 そうだ。自分よりずっと年上の男に、彼が勝ることのできる要素はほとんど存在し得なかった。四天王に就任した時期はリョウの方がわずかに早かったが、未だ一番手である自身とチャンピオンに最も近いその男との差はひとえに実力によるものだ。彼の目指す頂点がその男、ゴヨウであり、同時に恋敵でもあった。
 いや違う。リョウは反駁する。別にゴヨウと彼女がそういう関係ではない。彼女は仕事の合間を見つけては各地を飛び回り続けるような忙しない人で、恋愛にかまけている暇なんて持ち合わせていないのだろう。しかしゴヨウは違った。彼の彼女を見詰める眼差しは憧憬よりもずっと深いなにかを内包している、ようにリョウには見えた。本から吸い上げた数多の語彙でもって思いを胸のうちで反芻するだけのささやかな慕情。
 彼らは同僚という枠組みの中で平静を保っていた。
「何か飲みますか、リョウ」
 しかしその危うい均衡は、今リョウの眼前にいる彼によって呆気なく崩されてしまったのだ。
「いや、いいです」
 ゴヨウが控え室を訪れたことでリョウは気丈な振舞いを強いられる。何故この見計らったようなタイミングで来るのだろう。内心彼は毒づいた。そして、ともすれば暴れだしそうな敵愾心を薄い笑顔の下でどうにか飼いならすのに必死になる。
「最近調子が良くないみたいですね」
「ごめんなさい今日だって本当は僕で止められたのに」
 自身の不快感を隠し通そうと自然口は早く回る。
「違うんです……最近ずっと上の空でしょう、辛そう、で」  沸点がじわじわと下がってゆく。ゴヨウは知らずに続けた。
「何が貴方を苦しめているのですか」
 貴方の所為だ!と喚くことはしない。そんなことをしてしまったら彼女に見切られるような気がした。
「ゴヨウさんには……関係ありません、僕の問題ですから」
「一昨日のことです、か」
 リョウの欺瞞を全て知っているかのような声だった。
「!」
「そうなんですね?」
 取り繕っていた表情が崩れたところへ彼は静かに畳み掛ける。
 一昨日のこと。
「あのとき、居たんですよね、あそこに」
 事実はリョウの琴線を逆撫でる。
 一昨日の晩その場にいたのは、確かにシロナとゴヨウと、リョウであった。だがリョウとゴヨウ達とは顔を合わせていないはずだ。何せリョウは隠れていたのだから。別に本人に特別な意図があったわけではない、彼女と彼とが二人きりでいる所になんとなく入りづらかっただけで。珍しく彼は本を読んでいなかった。
 内容がくだらない談笑であったうちはまだいい、しかし長い沈黙を伴って空気が変わり始めた。
「あの」
 最初に痺れを切らしたのは彼だった。
「ん?」
「聞いて欲しいことがあるんですが」
「珍しいわね、そんな畏まって」
「貴女に、話さなくちゃいけないことなんです」
 意識が冷えていくのを感じる。
「……いいわよ、言って見て」
「シロナ。私は――」
 ゴヨウが彼女を呼ぶときは、他の女性を呼ぶのと同じように接尾語を伴っているのが常だった、たとえ昔馴染みの彼女に対しても、少なくともリョウの前ではそれが崩されたことは今の一度もない。リョウは全身が冷たい何かに支配されてゆくのを感じた。
 その場から離れなければという突発的な衝動に突き動かされ、駆け出す。足音への留意は忘れない。耳を塞いで只管逃れた。
 自室に戻り、騒ぐ心臓をどうにか宥めようとする。しかし脳内で何度も再生されている先ほどのやり取りが、そうさせてはくれなかった。しばらくの時間を要して、彼が落ち着いた後に襲ってくるのはどうしようもない虚脱感であった。
(シロナ、私は)
 その後彼が何を続けようとしたかなんて、考えたくもなかった。いや、考えなくとももう続きは決まっているようなものだろう。結局先手を打たれてしまったのだ。結果はどうであれ。最後までその場にいなかった彼はそう判断した。
(シロナ)
 彼の真剣味を帯びた声はリョウの耳を捉えて離さない。
「知りたいんです……、答えてください」
 沈んだ目で押し黙ったままの彼へ言葉を促す。
 お前がそんな口を叩くのか。今までとは違った性質の怒りがリョウを満たす。彼は理性を放棄した。
「じゃあ言いますけど」
(シロナ、私は)
「ゴヨウさん、僕は」
 衝動に任せて男に掴み掛かり、その紫を真っ直ぐに見る。
「スキなんです、」
 半透明のレンズの向こうで一瞬輝いた彼の目は、
「あの人が」
 台詞の真意を汲んで、塗りつぶしたように暗く濁った。
 何も言わずに視線を逃がした男の、そのささやかな慕情の行き先を、リョウは知らない。








然様ならトロイメライ


*****
*反転
ゴヨウ→シロナ←リョウ とみせかけた
シロナ←リョウ←ゴヨウ
最後ちょっとでも希望を抱いちゃったゴヨウさんの夢が潰えましたというはなし
ノンケリョウくんとバイなゴヨウさんがブームでした
20090530