ここ最近やたらと人の邪魔ばかりするあの男を見かけないことに気が付いたのはやはり最近のことで、しかし、大して気にはならなかった。仕事もはかどるというもので、特には問題もない。プライベートでの接触が減ったくらいで、職務で会う分にはなにも変化はなかった。わたしの知る限りでは。 ついさっきよく見知った黒髪の小柄な女性が本殿のほうへ向かうのが見えた。ダアトのトップがわざわざ赴いてくるようなことはあっただろうか。思い当たらなかった。 だからいつものように通路をくぐり抜けてやってきた彼が、どうにもおかしな雰囲気を纏っている原因がなにかわからなかった。その人がわりと繊細な生き物なのは知っていたから、自分から言い出すまでは気づかない振りをしていたのだが、それがどうやら癇に障ったようで、わたしは益々戸惑った。 と、そんなことを、わたしは遠まわしに引き伸ばしながら愚痴の一環としてこぼしたのだ。相手は言うまでもない(大人げがないことはよく知っている)。長々とどうでもいいことを聞かされた彼は、いつもの苦笑を浮かべると思っていたのだけれど、最近見ないような真面目な顔をして、多分な間を混ぜ込みつつ、 「陛下は真っ先に旦那に言うと思っていたんだが」 とかなんとか、わたしの知らない一部始終を言った。 わたしはそれらを聞いて、特になんとも思わなかった、といえばそれは嘘が多分に含まれていることになってしまう。ああようやくか、とも思ったが、動揺の方が大きかった。きっとガイは陛下から言伝されてわたしのところへやってきたのだ。事実を知らないわたしにいい加減我慢ならなくなったのだろうか。妻を娶るのはまだ先だろうな、と彼のいつかの台詞が頭の奥で響いた。声を頼りに記憶を手繰ると、それはルナの月、三ヶ月ほど前だったのだと思い出す。(今月はウンディーネデーカン、三月だ。)ものの数ヶ月で全ては取りまとめられないだろうから、それよりもずっと前に決まっていたことなのだろう。奥歯のもっと奥のほうで違和感が叫んだ。 こんなわけのわからない感覚は長いこと忘れていた。雪国のころを思い出す、不快なものだ。重苦しい濁った空洞が心のどこかに生まれたような気がした。 その日わたしが知ったのを見計らったように、陛下は執務室へ顔を出した。わたしは何か長い台詞を期待していたように思う。しかし彼は一方的な期待をあたりまえに裏切って、 「切り上げたら、部屋に来い」 とだけ残してすぐに引っ込んだ。 空洞は色を持ち、混濁として、だんだんと黒に近づいてゆく。 それを無視して走らせるペンの速度を上げた。 いつも悠々と闊歩しているはずの家畜たちは、早々に眠りについていた。もうそんな時間だっただろうか、と壁掛けの譜業が目に留まった。しばらく見ないうちに変わってしまっている。保守的で質素な白磁の時計は、彼の趣味にはほど遠い。どちらかと言うと女性物のようにも見えた。どのみち、贈り物に違いない。 「貰いもんだ、壊すなよ」 わたしがあまりに時計を凝視しているのをどう思ったのか、それよりもわたしが頂き物を衝動に任せてだめにする人間だと思われているのだろうか(まて、衝動とはなんのことだろう)、言葉はぴしゃりと叩きつけられる。座れ、とベッドの端を指されたがいいえ、と返す。じゃあ立っていろと跳ね除けられた。ベッドに腰掛ける彼との適度な距離感を探して歩くと、部屋がやたら小奇麗なことに気がついた。床に散らばっていたはずの様々なものがあるべき場所に収まっている。いい傾向だ。 「俺はもうすぐ結婚する」 「存じ上げております」 声は思いのほか簡単に出てきた。それはさっき、ようやく周知の事実となったところだ。 「式は来月の末になる」 知っていると言ったわたしに対してわざわざ報告をする必要があるのだろうか、と疑問符が頭の中を通り過ぎた。かち合った目を逸らすことはできない。できればもうこれ以上なにも喋らないで欲しかった。 「おめでとうございます。とうとう重い腰を上げましたか」 「…………」 青い視線はなにかを語ろうとしていた。 それを拒んで、わたしは言う。喉の奥でとどまっている言葉が飛び出さないように早口で。 「そういえばあなたは今月の生まれでしたね」 「ああ」 「誕生日に挙式、なんてどうでしょう、いいじゃないですか。本当に、あなたは、…………お目出度いことですよ」 うまく笑えているだろうか。 胸の奥の暗いどこかでなにかが小さなものが暴れている。 「お前にだけは言いたくなかった」 背けられた対の青い目が、過去形の言葉と一緒にわたしを深く抉った。 これは恋ではない。 It isn't love.*****
*反転
三月生まれは趣味です。皇帝と軍人なんて、なにがあっても結ばれることはありえないだろうなあと思ったので。薄暗くてすみません。 20080915~1105 |