お疲れさま、もうおやすみなさい。






            






 ジェイドの視界は真っ白だった。ここが現世ではない何処かならば、居るかもしれない神は随分と酷なことをなさるものだ。死してなお意識を保っているなんて無駄なことにも限りがある。そういうものだと一蹴されてしまえばそれまでのことだけれど、だからこそ既に死んでしまった自分にはあまり関係のないものだと思った。ここがどこでも驚きはしない。自分の心はきっと鋼鉄で、剛毛だから。体毛の薄い分だけもっさりと生えているだろう。
 半ば好奇心で目線を散らせれば、視界の端で本棚を捕捉した。装丁だけでも重たげな雰囲気を醸している、偏った分野の書籍が詰まっていた。さらに呆れたことに、書架の隣に設えられたデスクは悪趣味な備品で仕立て上げられ、その周りには産まれかけの機械の残骸が散らばっていた。譜業の残骸は余計だけれどそこを大目に見ても執務室のようだった。書類と工具で埋まっているデスクへ掛けている神は黒装束で銀髪で、花弁のような色・形の襟を襟元から生やしていた。書類に熱中していた彼はふいと顔を上げ、ジェイドの覚醒に気付き、言った。
「起きましたか」
 神は神でも死神だった。
「此処は」白い背景に浮かび上がる黒や紫の形は部屋の色彩を引っ掻き回し、浮いていた。感覚的にしっくりとこない配色は彼の色彩感覚の賜物だったらしい。
「ダアトです。覚えてませんか」
「覚えていればわざわざ訊きません」
「なぜあなたが此処にいるか、分かりますか?」
 言われて考える。まず思い当たったのは全身を包む鈍痛と、そこかしこに巻きついている止血帯。
「……終わったのですか」
「ええ」言及はしない彼に少しばかりジェイドは憤った。
「わたし達は負けた?」
「よく、分かりましたね」
「それならば」  何故、と病の人は呟く。うつろな声色は弱い。
「何故私が生きているんですか」
 レンズ越しの敵意は剥きだされたまま。ジェイドの眼を抑える譜業は、彼の感情に呼応した音素に揺さぶられる。かたかた。死霊使いの視線を受けて震え上がった内面を隠し、死神は言葉を探す。そうしながら、ジェイドの紅い目と眼鏡を見遣る。音素の制御が甘い。
 憔悴し眠っていた彼は、不安定だった。もしかしたら眼鏡が壊れたのかもしれない。
 ディスト、と続きを催促されてようやく、鎌を持たない死神は言った。
「預言に死霊使いを殺せなどとは詠まれてませんでしたからね」
 暗に、マルクト皇帝は預言に殺されたと。
 ああそうだったんですか、など、ジェイドはいえる由もない。
 言ってはいけない。負け戦だなんて無駄死にだなんて予定調和だなんて。彼はなにも受け入れたくはない。認めはしない。
 ジェイドは中身のない視線をどこかへ巡らせてから、諦めたように笑った。「あの人は」
 どこも可笑しくはないのに彼は笑う。
「死にましたか」
 疲れくたびれ、嘯くように薄っぺらく。




 目が覚めたら、もうすでに日は落ちていた。ジェイドはさして感慨もなさそうに身体を起こし、眼鏡を引っ掛ける。最近狂ってばかりの体内時計に振りまわされてはいるものの、ほとんど寝たきりのジェイドは時間に縛られる必要がなかった。
 自分に残った時間もあと数えるほどしかないのを、彼は自覚していた。けれどそれはごく当然の結果で、避けることは出来ないものだとも知っていた。
 両目が紅く、熱くなるのを感じる。
 預言が世界を終わらせるよりも早く、ジェイドは消え去るだろう。眼をはじめとした、彼にかかる負担は以前の何倍にも膨れ上がって、彼自身を蝕んでいた。
「こんばんわ、ジェイド。水を」
「有難うございます、そこへ置いてください」
 ジェイドが腰掛けるベッドのサイドテーブルに、透明な水差しと同色のグラスが置かれる。
 グラスへなみなみと注がれた透明な水。風一つとない部屋の中で水は波紋を広げ、ゆらゆらとゆれていた。眼の、溶岩を閉じ込めたような熱が一層、ひどくなったのを感じた。
 ディストの視線を避けながら水を煽る。
「大丈夫ですか」
「、ええ、何の問題も無く」
「…………そのようですね」
 眼鏡の修理を頼もうともせず、素知らぬ顔でまた水を流し込んだ。喉は冷えて潤う。目は煮えたぎるような激痛を孕む。
 痛みを知られてはいけなかった。もし知れればディストは新しい譜業眼鏡を寄越してくるだろう。そうなれば、ジェイドは中途半端に生きながらえてしまう、かも知れない。それだけは避けようと、ジェイドは目を瞑って水を飲み干した。
「何かあったら呼んでくださいね。それと、水、置いときます」
 ばたん、とドアに遮蔽された音とぼやけた靴音がするのを聞き流してから。
「――――っううあ」
 獣のような呻きをひそかに漏らした。
「う、……――」
 苛烈さを増す熱。最後まで悲鳴を噛み殺し、のたうつ。痛みから逃れようと空を掻いた手は、その厚さを透かして天井の色を写していた。
 そのことに、まだ気付かない。





 このまま跡形もなくほどけて混ざって、終わってしまえばいいと願った。そうすればどこかであの人にも会えるような気がした。
 早く眠りたい。














*反転
誰が一番可哀想って多分ディスト。甲斐甲斐しくジェイドの面倒を見ていたのにある日ふっと居なくなって、ジェイドの介護を生き甲斐っぽく思っていたディストはちょっと途方にくれます。すぐ立ち直りますが。
陛下が亡くなって、譜眼もコンタミネーションも結構ガタきちゃったなあどうしよう特にやること無いし陛下に会いたいから死のうかな、とかいう乙女(デフォ)+五月病くさい35歳でした。
2007/05/19