忍足は猫背だ。むしろ前世が猫なんじゃないかと思うくらいに。本人に言ったら鼻で笑われたけど。


 夏は終わったというのに暑苦しい。まだ浮かれ気分が抜けずに騒ぐ皆。いつもと何も変わらない。勿論俺もそうで、幼稚舎の頃から習慣化している睡眠、もとい居眠りを止める予定もなかった。
 そんな中、目が覚めたら世界が変わっていた……とか言ったら大袈裟だろう。変わったのは、世界にとってはほんの些細などうでもいいこと。
 そんなどうでもいいことで一喜一憂するのは人間くらいだろう。幸せが多いのはいいことだ。幸せと同じくらいに不幸が多いのは考え物だけど。
 ざわつく教室の中でも、甲高い悲鳴をあげたり数人集まって喚いていたりする女子の行動は奇妙で目立った。大体は、意中の人と離れた、とか、嫌な奴とくっついたとか、はたまた意中の人と隣だとか、そんなことで騒いでいるようで。つくづくお手軽なモンだと思う。
 この暑苦しい中で、男女机をくっつけるなんて嫌がらせに出る教師を恨んだ。隣になった、そんなに好みではない女子が言う。
「芥川君、寝ないでね?」
 俺の睡眠を邪魔しないでくれ。

「あー、暇。眠い。つか限界」
 べらべらとどうでもいいことばかり喋る技家の女教師――美人だったらまだしも、中年(俗称オバサン)ときたものだ――が何か喚く。その喚きすら無意味だ。訳の分からないことを並べられると尚更眠くなる気質である俺には。
 オバサンと隣の女子は、俺の成績を心配してか、俺が眠くなる頃に必ず声をかけてくる。俺は良くも悪くもない普通の成績だし、向こうは親切のつもりでやっているからタチが悪い。人生は諦めが肝心だと思う。
 最早、脳内天使さんと脳内悪魔さんも寝ることを薦めている。そんなんでいいのか天使さん。……ああ、もう我慢できない。話を聞け、とかいうオバサンと、必死になって俺を眠らせまいとするお隣さんを無視して、睡魔に魂を売り渡した。
 夢の中にまで出てくるオバサンは、いつも通り喚いていた。

「起きた?」
 目が覚めたら世界が変わっていた、というのは二度目な気がする。世界、というより景色か?
 と、そんなことを考える暇なんてない、次は移動教室だった。いつも時間ギリギリまで騒いでいる奴等が居ないがらりとした教室の中で、俺と誰かが取り残されていた。
「……あれ」
 意識がはっきりとしてきた。
 教科書を何人分か抱えたお隣さんが俺を覗き込んでいる。第一声からして、いい子ちゃんの彼女は、わざわざ俺を起こす為にでも教室へ来たんだろう。そのついでに、とかで忘れた教科書とかを頼まれたんだろう。何人分か教科書を抱えていた。大して苦でもなさそうなので手伝いはしない。なんせ片手で持てるほどなのだから。
「良かった。次音楽だよ?」
 彼女は安心したように言う。ああ気に喰わない。
「行こう?」
 片手を差し出してにこやかに笑う。その手を反射的に弾いた。
 彼女に負けないくらいの笑顔で、俺も言う。
「ごめん片岡、俺に構うの止めて?」
 本当は、ごめん、とかは思っていないんだけど。そういえば、彼女の名前を呼んだのはこれが最初かもしれない。
 心の中でそう思い当たる。と、呆然としていた彼女が我に返ったかのような早足で教室を出て行った。
「さーて、俺も行きますかっと」
 本当は行きたくない、でも担当教師がテニス部の監督ときたらフケるわけにはいかない。一年であるうちには、早く監督に名前を覚えてもらわなければいけないし、何よりきちんと授業に出席し媚を売っておいたほうが後々楽に決まっている。彼女が気を利かせて「芥川君は体調不良です」と一言言ってくれればいいだけの話だけれど、彼女にそれだけのまごころはないだろう。
 汚い机の中を掻き回して、教科書を引っ張り出す。




 教室を出て、まず最初に出くわしたのは、人の悪い笑みを浮かべる忍足だった。
「自分きっついなぁ、片岡さん泣いてたで?」
「盗み聞きなんて趣味悪いよ、忍足」
「不可抗力やって」
「んじゃぁ、さっさと去るなり、耳塞ぐなりしない?」
「んな事するわけ無いやん。楽しそうやったし」
「じゃぁ結局盗み聞きじゃんか」
「せやな」
「素直にそういえばいいのにさ」
「こんな性格やから。何せ趣味悪いしなぁ」
 さっきの言葉を逆手にとって、忍足はけらけら笑う。このイントネーションには慣れたけれど、(何か肝心な所を隠しているような、それを気付けないのを馬鹿にしているような。普段のやんわりした物腰や口調で、そういうのを隠しているような。)どこか韜晦してるような態度にはまだ慣れない。
 どれにしろ、気分がよくないことは確かだ。
 もう聞き飽きた音が、聞き飽きたテンポで、授業の始まりを告げていた。 
「あーあ、予鈴鳴っちゃったよ。どうしてくれんのさ。監督の授業なのに」
「そんなら、監督に言うといたで。『芥川君は体調不良です』ってな」
 どこぞの女よりは余程気が利く。ただ、本人は楽しむついでに貸しをつくろうとしているフシがあるから始末が悪い。今回もどうせそのクチだ。
 まぁ、貸しの話を持ち出された時には寝たふりでもしておけばいい。その場しのぎに過ぎないけれど。一週間もすれば忘れてしまうだろう。都合の悪いことは早めに忘れる主義だ。

「ほなら、何処行こか?」
 悪びれもなく、いつものように言った。こういう時の忍足の言動はあまり好きじゃない。
 だから、忍足とは馬が合わないのかもしれなかった。授業をサボった罪悪感とかの問題じゃなくて、嗜好やら性格やらの話で。
 いや、そんなことはとっくにわかってる。俺はこんなんで、忍足はあんなんだから。
 無遠慮に歩みを進める毎に、誰も居ない廊下に足音が響く。幸い両隣の2クラスは居ないようだった。
「屋上は?」
「あかんあかん、下手すると先輩居るんや」
 といいつつ、忍足の歩みは屋上へと向かっていく。
「随分詳しいね。……成績良いのにさ」
 俺のイメージでは、というか過去の体験では、成績上位に常駐する奴は生真面目か勉強熱心か根暗かの三択でしかなかった。それが中学へ進学し、派手好きの跡部は勿論のこと、常に飄々とした態度でいる忍足やら人当たりの良い滝のおかげで、俺の成績についての価値観はそれなりに変わりつつあった。
 先ほど挙げた3人は(裏ではどうだか知らないけれど)そんな生真面目でもなくほどよくふざけもするし、勉強よりテニスに関しての方が熱心だし、あいつらの何処が根暗なんだかわかりゃしない。
 そう考えながら返事を待つと、
「成績なんて関係ないやん」
 歩みを止めた忍足は、無機質な声で一言放った。俺もそれに倣って立ち止まるとただでさえ静かな廊下が、余計に打ち静まる。
「ちゅーかそんな優等生みたいに見えてたんか?」
 一言前の冷たさを孕んだ言葉とは裏腹に、また人をからかうような口調に戻る。今の張り詰めた空気はなんだったのか、そんな疑問もどうでもいいような口調。
「いや、そうでもないけど」
「そこは嘘でも『そうです』て言うとき」
「常日頃思ってることなんだけど、忍足って実はナルシスト?」
「そう見えるん? 心外やなぁ」
「そこは冗談でも『そうです』って言ってくれなきゃ」
 俺が会話を盗んだことに、大して驚きもせずに笑う。
「いつまで突っ立ってるん? 行くで、屋上」
 いきなり止まったのはお前だろ、と言おうと思ったけどやめた。特に意味も無いし、いつもより少しだけ機嫌が良さそうな忍足のそれを損ねるのもなんだからだ。

 というわけで、屋上に居るわけだが。湿度の高いらしい今日は、屋外に居ても蒸し暑い。ただ、まとわりつくじめじめした重い空気のわりにそんな不快でもない気がするのは、時々吹く少しばかりぬるい風のおかげだろう。
 今日は誰も居なかった。忍足曰く、運がいい、らしい。日によればしょーもない連中が居たりして面倒だと、俺の横で楽しそうに喋る。一年生にここまで言われてはそのしょーもない先輩方も形無しだ。しかも予想がつくあたりがなんとも哀しい。
 適当に腰を下ろして、ぼーっとする。屋上でサボタージュは王道だけども、改めてやってみるとなんか間抜けだ。あぁ、とても眠い。
 湿っぽい風が吹いた。互いに無言。なんとなく会話がないのは辛い。
「ところで、忍足って猫背だよね」
「唐突やね」
 唐突でもなんでも。常日頃から思っていることを聞いちゃいけないなんて決まりはないはずだ。
「いいじゃん、事実なんだから。背ぇ高いのに勿体無い」
 俺と忍足と、結構な身長差があるわけで。言葉の通り、平均より控えめな身長の俺からすれば、かなり羨ましいわけだ。高い背を気にしてわざとそうする奴は居るが、忍足に限ってそれはないだろう(女子じゃあるまいし、ましてや成長期だ)。まぁとにかく勿体無いと思う。余計な分を分けて欲しい……とは口が裂けても言えない。思ってしまいそうにはなるが、多少あるプライドにかけて絶対に口にはしない。
「そういうお前はちっこいしなぁ」
 そんな健気な俺は「ちっこい」の一言で一蹴された。心とプライドにダメージ。
「これから伸びる……予定」 
 この台詞を言うのも何度目なんだろうか。クラスメートやら同級生にからかわれる度に言っているような。つまりは結構な頻度で。
 そんなことを考えてまた余計にダメージをくらった。自滅だ。
「身長分けたろか?」
「要らないし」
 遠慮したい。それは。多少……、多少魅力的ではあるけども俺のプライドが許さない。
 というかあれだ、ここまで俺の嫌がることをする忍足は、読心術でもできるんじゃないんだろうか。そう思えてならない。



 俺たちはのんびり寝ていた、部活の時間を過ぎても寝ていた。多分昼間の睡眠を邪魔されたのがいけない。
 腹が空いて目を覚ますまで、俺たちは屋上で半口空けながら仲良く寝ていた。何故か先に起きたのは俺で、そのあとに隣で寝ていた忍足を揺すって起こして。それからの記憶がない。多分2人揃って二度寝したんだろう。珍しいことだ。それはもう。
 と、事の経緯を中途半端に告げ、俺たちは部長にお叱りを受け、忍足は「お前がいながら何やってんだ」と言われいた。そのときも忍足はだらりと背を丸めて、申し訳なさそうな態度の演技をしていた。部長が叱り終えていなくなった途端に愚痴りだす忍足には「反省」って言葉はむしろ真逆のものだと思う。そう言ったら笑顔で睨まれて、忍足の唇は小さく動いた。
「うっさいわチビ」
 色々なところにダメージ。事実だしな、と確認することで更に追加ダメージ。
 それくらいでめげてたまるか。
「忍足、ずっと猫背でいてね」
 そうすれば多分、何年か先には、追い越せそうな気がするんだ。
 そう言ったら奇妙なものを見るような目を向けられた。それでもめげない。散々チビだのちっさいだの言いたい放題だった癖に、ゆくゆくはそのチビにチビと言われる運命を辿る……ということはないとは言い切れないから。というかそうであって欲しい。
 半ば叫びながら走っている一年の列に忍足は混ざっていった。その高い身長の所為で目立つのがなんか悔しい。俺は急いで忍足の横に(無理やり)行き、さっきまで考えていた身長についてのそれを話してやった。

「そういうのも楽しいと思わない?」

 その呟きを聞き取った忍足は、少し苦笑いして「御免やな」、と言った。
































忍足は猫背だと叫びたかっただけ。萌えってすごい燃料だと思いました。余談ですが私も猫背です。 というかあれですよ、ジローの語尾をアルファベットにするのは抵抗があるんです。
2005/09/17
2005/10/09、多少改訂